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2017年11月3日金曜日

To sue or not to sue その2 高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。

学術論文は事実と推論から成る。地動説の論文であれば、天体観測から得られた事実とそれに基く推論が記される。過去の言語は現代語と違い調査が行なえない。既にある限られた量の文献だけが資料である。新たな事実の発見は稀である。したがって、上代語や中古語の論文は推論を束ねたものとなる。推論が重要なのは言うまでもない。しかし、国語学の論文に特有の非論理的な推論のその1その2その3その4その5その6に述べたように、国語学の論文の推論には学術論文にそぐわない非論理的で感覚的なものが少なくない。

この回は誤って用いられた演繹という語について記す。


仮説としてアク接尾がもと四段動詞だと考え、その仮設された語義・語性からク語法の用例群を検証するという方法は誤りではない。

未知の語の意味を推定する方法は他にない。Q氏は何を考えているのだろう。そう思っていた。

編集委員のP氏とのやりとりでモダリティが話題になった。古典語のモダリティで有名なのは高山善行氏である。そこで同氏の論文を集中的に読んだ。高山善行(2005)を読んで萬葉学者が上述のQ氏のような考えを述べる背景が理解できた。結論を先に言えば「演繹」の意味の誤解である。

高山善行(2005)には他にも問題点がある。それらを併せて検討したい。問題点を列挙する。

1 演繹でない推論を演繹と述べている。しかもそれは論理的誤謬(fallacy)である。
2 データの整理が不適切である。
3 モダリティ(modality)の意味が正しく理解されていない。 また、高山氏の言う「モダリティ形式」は「推量の助動詞」を言い替えただけにしか見えない。
4 主観的意見と客観的事実が区別されていない。
5 論文の冒頭で疑問が呈された「婉曲」「仮定」という従来説の検討が行方不明。同じく「モダリティ表現史」の検討も行方不明。
6 先行文献の引用が不適切。

以下、1から6を順に検討する。

1 演繹でない推論を演繹と述べている。しかもそれは論理的誤謬(fallacy)である。

高山善行(2005)から引用する。

 一般に助動詞研究では, 大量の用例を収集して用例の意味解釈を積み重ね, それらを分類するという方法がとられる。それは帰納重視, 意味重視の立場と言える。この方法が研究の基礎的段階で一定の成果を挙げた点は認めておかねばならない。
 しかしながら, 本稿のテーマに関しては,一般的な方法は通用しにくいと思われる。
」(1.3節)


従来の帰納的方法に対して,本稿では演繹的方法を用いる。
」(2.1節)

      A number of previous studies have made an analysis of the adnominal usage of the Old Japanese auxiliary mu based on inductive methods; however, the essential problems have been left unsolved. This paper investigates and describes the adnominal usage of mu based on a deductive method.
」(Abstract)

しかし、演繹が用いられるのは数学や神学のような公理から出発する学問だけである。自然科学、社会科学、言語学は経験科学である。帰納(仮説とその検証)以外に知識を得る手段がない。これは経験科学では常識である。査読者がこのような非常識な記述を何故見逃したか理解に苦しむ。

帰納は次のような推論である。

私は一羽のカラスを見た。そのカラスは黒かった。別なカラスを見た。そのカラスも黒かった。何羽ものカラスを見たが皆黒かった。ここで仮説を立てるのである。すなわち

仮説 カラスは黒いものである(すべてのカラスは黒い)、

と。その後は仮説の検証を続ける。新しくカラスを見たが黒かった。仮説は反証されなかった。

仮説は一つの反例があれば棄却される。例えば青いカラスが観察された場合、もはや「すべてのカラスは黒い」と言えない。しかし 「すべてのカラスが黒い」という命題は永遠に証明されない。過去に生きていたカラスのすべて、今後生まれるカラスのすべてを数え尽くすことは出来ない。

自然科学の法則はすべて未だ反証されていない仮説である。Karl Popper (1972)から引用する。


All theories are hypotheses; all may be overthrown.


なお、WikipediaにKarl Popperへの批判が紹介されているが、それは確率をどう扱うか、帰納をどう考えるかという点であって、上で述べたことに関して異論を述べる科学研究者はいない(世の中には様々な人がいるのでゼロと言い切れないが、そのような考えは科学というより宗教であろう。)。

演繹は次のような推論である。

A→B, A ⊢ B
(ここで記号 ⊢は推論を表わす。左側のものから右側が導かれるという意味である。)
あれが雪であるならばあれは白い(雪は白い) A→B
あれは雪である A
したがって あれは白い ∴ B
これを「前件肯定」(modus ponens)と言う。A→BのAを前件、Bを後件と言う。その前件が肯定されれば、後件も肯定される。

もう一つある。

A→B, ¬B ⊢¬A
あれが雪であるならばあれは白い(雪は白い) A→B
あれは白くない ¬B
したがって あれは雪でない ∴ ¬A
これを「後件否定」(modus tollens)と言う。

どちらも前提のA→Bの中にある情報が引き出されただけである。したがって知識は増えない。

なお、上に「逆は真なり」と書いた(国語学の論文に特有の)誤った推論は
A→B, B ⊢ A
あれが雪であるならばあれは白い(雪は白い) A→B
あれは白い B
したがって あれは雪である ∴ A
というものであり、「後件肯定」と呼ばれる論理的誤謬(fallacy)である。

この「後件肯定」は結果から原因を予測する方法でもあるため仮説を作るときに使われる。我々の日常生活は仮説に満ちている。身体がだるいなどの症状から風邪という原因の仮説を立て、その後の他の症状の発生を観察することで、その仮説を検証しようとする。配偶者のちょっとした言動の変化から浮気という原因を仮定する人もあるかもしれない。

高山氏は一体どこに演繹を使っているのか。まず次(2.2節)が候補であろう。

 たとえぼ,「む」は《一般論》を表すと言われることがある。しかし実際には,「む」非使用のA タイプも《一般論》で用いられている。

 (8) 「十にあまりぬる人は,雛遊びは忌みはべるものを,… …」(源1−393)

(8)は,乳母(=少納言) が幼い紫の上に説教する場面である。ここでは, 「十歳を越えた人は,人形遊びを卒業するものだ」という《一般論》が述べられている。《一般論》は「む」の意味ではなく,むしろ「む」使用の文脈条件と見るべきであろう。

 また,「む」は《未来》を表すとも言われている。(9)を御覧いただきたい。

 (9) けふこの山つくる人には日三日たぶべし。(枕104)

 「雪山を作る」行為は,この文の発話時点以降の未来の事態である。そこで,「この山つくらむ人」が期待されるところだが,実際にはφになっている。

 結局, 《一般論》《未来》は,「む」の一面を捉えてはいるが,本質的な性質とは言い難い。「む」使用例だけを見ていると,(8)(9)のような例は最初から研究対象になりにくいのである。「む」とφの対立・相対化は,「む」固有の意味, 機能を捉える上で重要な視点である。
」(2.2節、読みやすくするために改行を追加した)

しかしこれは演繹ではない。高山氏のこの推論を記号で書くと次のようになる。

A→B, B ⊢ A
あれが雪であるならばあれは白い(雪は白い) A→B
砂糖は白い C→B
したがって 「雪は白い」は間違いである ∴ ¬(A→B)

A→B, B ⊢ A
「む」があるならばその文は《一般論》を表わす A→B
「む」がない文も《一般論》を表わす C→B
したがって 「「む」は《一般論》を表わす」は間違いである ∴ ¬(A→B)

高山氏は誤解しているが、論理式A→BはC→Bを排除するものではない。こう書くとP氏は「我々がやっているのは萬葉学であって論理学でない」と言いそうである。しかし、萬葉学であろうが何であろうが、推論が間違った論文は掲載すべきでない。なお、更なる誤解を受けそうであるが、高山氏のこの論文を掲載すべきでないと言っているのではない。間違いを訂正しないならば掲載すべきでないと言っているだけである。理系の論文であれば必ず査読者が指摘する初歩的な推論の誤りが訂正されていない。

たとえば、次の例文で「た」が過去を表すことを否定できるだろうか。

2-1 太郎は花子を強く抱きしめた。花子の心臓の鼓動が高まり太朗に伝わる。

この「伝わる」は過去の事象(event)を表わす。歴史的現在の用法である。高山氏の推論はこの「伝わる」をもって「た」に過去の意味がないと言うのと同じである。間違った推論であり、演繹でないのは言うまでもない。

高山善行(2005)のその後は中古の用例の紹介が続き、次(4.1節)に再び推論が用いられる。データの扱いは別途検討することにし、ここでは高山氏の観察結果をすべて正しいとして検討を進める。


 先述のように,B タイプにはいくつかの点で制約が見られる。それらの制約をもとに,B タイプの「人」が意味論上,どのような性質を持つか考えてみよう。

 まず,B タイプには,時間・場所表現との共起,テンス形式の生起に制約がある。そのため,時空の座標軸上に「人」を位置づけることができない。また,存在詞,アスペクト形式の生起,人の数量にも制約が見られた。そのため,現実世界に実在する「人」のく存在〉〈動きの様態〉〈数量〉について描写することができない。なお,ここでの「現実世界」とは,「作者が作品中において現実のものとして表現する世界」のことであり,いわゆる「史実」とは異なる。

 さて,現実世界の1人」は,時空の座標軸上に位置づけることができ,〈存在〉〈動きの様態〉〈数量〉について自由に描写することができるはずである。だとすると,B タイプの「人」は,現実世界に実在し, 描写可能な「人」ではありえない。つまり,それは,作者もしくは登場人物の頭の中にある「人」なのであり,非現実世界(想像の世界)の「人」ということになる。
」(4.1節、読みやすくするために改行を追加した)

高山氏の4.1節の推論は原因と結果が逆である。次の2-2と同じ論法である。

2-2 物干し竿で落とせなかったから、星は高いところにある。
2-3 星は高いところにあるから、物干し竿で落とせなかった。

理系や法学の教育を受けた人なら、この二つの文の論理の違いを立ち所に理解する。「物干し竿で落とせなかった」は実験から得られた結果である。その結果に基いて「星は高いところにある」という原因を推測する。次の2-3の「星は高いところにある」は仮説である。その仮説から「物干し竿で落とせなかった」という結果を演繹する。この方法は仮説の検証に使われる。仮説演繹法と呼ばれるが、そこから何か新しい事実が見付かるわけでないことに注意されたい。仮説を公理のように正しいものと仮定して、そこから演繹された結果が事実と整合するかどうかを見て、整合しないなら仮説を棄却するという方法である。高山善行(2002)は北原保雄(1984)を引用して演繹的な方法を奨励しているが、それは仮説の検証に用いられる仮説演繹法である。

高山氏の4.1節の表現は端折って言うと2-4である。これは2-2と同じく、結果から原因を推測する推論である。上で述べた「後件肯定」と呼ばれる論理的誤謬(fallacy)である。

2-4 時間、場所などとの共起に制約があった(観察結果)から、連体形の「む」は現実を記述できない(原因を推測)。
2-5 連体形の「む」は現実を記述できない(仮説)から、時間、場所などとの共起に制約があった(観察結果を説明)。

高山善行(2005)の結論は


「む」でマークされることによって,現実性の解釈は排除され,必ず非現実性解釈となる。「む」が名詞句の非現実性を標示する機能を非現実標示と呼ぶことにしよう。「む」は名詞句の非現実性を明示する標識(marker) として働いている。
」(5節)

であるが、これは同論文が主張するような演繹で導かれたものではない。上述のように、観察結果を説明する仮説として提案されたものである。

なお、「む」 が非現実を表わすことは、萬葉学会のQ氏のセリフを借りれば、「新知見とは言いえない」。時代別国語辞典上代編の「む」の項から引用する。


動詞・形容詞・助動詞の未然形(形容詞は~ケの形〉に接して、非現実の事柄について予想をあらわすのを原義とする

以上、高山善行(2005)で用いられた「演繹」は,正しい演繹法でないばかりか論理的誤謬(fallacy)であったことを示した。他の問題点は次回以降としたい。萬葉学会のQ氏が「仮説としてアク接尾がもと四段動詞だと考え、その仮設された語義・語性からク語法の用例群を検証するという方法は誤りではない。」と述べた背景には高山善行(2005)と同様の演繹法の誤解があるためと考える。

読者の中には萬葉学会のQ氏は高山善行氏ではないかと考える向きがあるかもしれない。その可能性は否定できない。事実、高山氏は萬葉学会の会員である。しかし、国語学の論文に特有の非論理的な推論のその1その2その3その4その5その6に示したように、このような初歩的な推論を間違えることは国語学の世界では珍しくない(理系や法学の世界から見れば信じられないかもしれない)。従って、現時点でそのように断定することはできない。

それよりも、このような非論理的推論がまかり通っていることは、間違った論文が多数刊行されるという小さな問題とともに、正しい論文が不当に棄却されるという大きな問題を生む。本居宣長らの国学の時代から上代や中古の言語の解釈に大きな進展がない理由がそこにあると考える。


引用文献
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
北原保雄(1984) 『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994) 『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
高山善行(2002) 『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)

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