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2017年9月17日日曜日

質的記述 その5 モダリティという方言

萬葉学会の不掲載理由を詳細に検討した。それは近々公開するが、その前にモダリティという方言について書く。Merriam-Webstermodalityを次のように説明する。

 2 :the classification of logical propositions (see proposition 1) according to their asserting or denying the possibility, impossibility, contingency, or necessity of their content

つまり英語で言うmodalityは命題の可能、不可能、偶然、必然に関する分類である。これは可能世界というものを考えるとわかりやすい。サイコロを振って、 1が出る世界、2が出る世界と順番に考え、6が出る世界までの六つを到達可能な世界とする。この六つのうちのいずれの世界でも起こりえないこと、たとえば7が出ることは不可能である。一回で必ず1が出るとは言えないが、出ることは可能である。六つの世界のうちの一つで実現する場合を可能と言う。1から6までの自然数のいずれかが出ることは必然である。到達可能な世界のすべてて実現されることを必然と言う。

これらの概念はアリストテレースの著作から研究されてきた。クリプキらが提案した可能世界という考えで一気に分かりやすくなった。いや、考えやすくなったと言うべきか。

ところが、万葉学者が言うモダリティはそれとは違う。これは査読者のQ氏が次のように記していることからも窺える。

さらに、ク語法に対して明確な知覚の表明という、モーダルな意味があると捉える点は興味深い。

また、最近読んだ高山善行(1996)に次の記述があった。

この事実は、モゾ、モコソが係助詞一般とは質が異なることを表す。と同時に、モゾ、モコソ表現のモーダルな性質を表しているのではなかろうか。何らかのモーダルな意味を必要とする仮定表現の帰結表現として用いられていることがモゾ、モコソ表現のモーダルな性質を根拠づけるであろう。かつてたされたような個別論の枠内では、仮定条件句との呼応は、モゾ、モコソ表現における推量的判断の確笑性と結びつけられがちであったが、視野を広げてみると、モーダルな性質を認めるための根拠として、改めて意義づけられることになるのである。

この事実とは仮定条件文の後件に「もぞ」「もこそ」があるときに「む」が現われないことである。これは宣長が詞玉緒で指摘して久しい。

萬葉学会のQ氏も高山氏も「モーダル」という語を「命題の提示の仕方にかんする」という非常に広い意味に用いている。Q氏の場合は「明確に知覚される」という意味がモーダルであるし、高山氏の場合は、ここでは、推量という意味がモーダルである。

このような大胆な定義はFillmore (1968)が最初であろう。

In the basic structure of sentences, then, we find what might be called the‘proposition’, a tenseless set of relationships involving verbs and nouns (and embedded sentences, if there are any), separated from what might be calledthe ‘modality’ constituent. This latter will include such modalities on the sentence-as-a-whole as negation, tense, mood, and aspect.  

このFillmoreの考えを寺村秀夫(1971)が紹介している。それを通じて国内に知られたのであろう。

しかしCook(1989)によると、Fill,moreはその後modalityに触れていない。おそらく関心はpropositionだけにあり、邪魔な部分をmodalityと一括して切り捨てただけだと思う。

この拡張されたモダリティについて哲学者の飯田隆氏が「論理学におけるモダリティ」と題した論文で感想を述べている。

山田小枝(2002) は次のような指摘をしている。

しかし、先に挙げたLyonsなどの必然性と可能性の概念を中心に指えたモダリティ、あるいは、「モダリティというのは、yesとnoの聞に位置する意味の領域、肯定極と否定極の中間領域のことである」と述べているHallidayのモダリティはいずれも肯定・否定間のさまざまな判定に対する人間の関心に焦点を絞っている。その「狭いモダリティ」と、真偽判断、価値判断から始まり対人関係、感嘆表出・慣行儀礼までを含む言語行為の諸相をモダリティとする「拡大モダリティ」とを等しく「モダリティ」の名称で指し示すことには無理があり、別な名称を用いるほうが良いように思われる。

山田氏の意見に同感である。飯田氏は従来のmodalityに「様相」という言葉を使っているが、高山(1996)も拡大された意味で「様相的」や「様相性」を使っている。

なお、飯田氏が論理学は自然言語と一致しないことを指摘しているが、それは自然言語全般という意味ではなく、個々の自然言語、日本語や英語と一致しない場合があるのである。つまり、数理論理学のある表現が対応する日本語の表現と一致しなかったり、別なある表現が英語の表現と一致しなかったりという現象であり、数理論理学のある表現がすべての自然言語と一致しないわけではない。こんなことを何故書くかと言うと、この点を拡大解釈されて、それ見たことか、数理論理学は意味がない、と早急な結論を出す人が現われるかもしれないからである。

数理論理学は完全ではない。それはすべての自然言語がそれぞれ完全でないのと同じである。日本語のある表現は対応する英語の表現と同じ意味ではないし、英語のある文は対応する日本語の文と同じ意味ではない。 数値論理学は自然言語を模して人工的に作られたものである。現時点で自然言語のあるもののある部分と同じでないとしたら、それは人工物である数理論理学がその言語に合わせるべきである。それが出来ていないのは自然言語の論理を我々が完全に把握していないからである。出来の悪い中学生でも日本語の「は」と「が」の使い分けを完全に出来る。秀才の外国人が習得に苦労するというのにである。しかし日本語学者はその使い分けに潜む論理構造をまだ解き明かしていない。自転車に乗れることと自転車に乗っているときの筋肉の動きを把握することは別なのである。

引用文献
Fillmore, Charles J. (1968) "The Case for Case". In Bach and Harms (Ed.): Universals in Linguistic Theory. New York: Holt, Rinehart, and Winston, 1-88.
寺村秀夫(1971)「‘タ’'の意味と機能一一アスベタト・テンス・ムードの構文的位置づけ」 岩倉具実教授退職記念論文集『言語学と日本語問題』 (くろしお出版〉
Cook, Walter Anthony  (1989) Case Grammar Theory, Georgetown Univ Press
高山善行(1996)「複合係助詞モゾ,モコソの叙法性」 『語文』(大阪大学国語国文学会) 65 p14-24
山田小枝(2002)「ヨーロッパ諸語との比較における日本語のアスペクト・モダリティ」 『日本語学』(明治書院) 21(8), 50-58, 2002-07

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