上代文学会の「答弁書」「準備書面」で目を引くのは「説得力」という奇妙な審査基準である。萬葉学会との民事調停の席でも乾善彦、上野誠の両氏は「(私の投稿に)説得力がない」「(私が)聞く耳を持たない」と調停員を通じて伝えてきた。私からすれば「聞く耳を持たない」のは乾善彦氏であるが、そのことは別途述べる。私は聞く耳を持ち、乾善彦氏の「説得力」の意味をずっと考えていた。学会の審査基準で初めて聞く言葉だったし、その言葉で乾善彦氏が何を伝えようとしているのか見当が付かなかった。もちろん日常語としての説得力は聞いたことがある。しかし学会という場で使われるとは思わなかった。上代文学会の書面に「説得力」が頻繁に登場するところをみると、これは国文学科の方言かもしれない。
Google Analytics
2019年9月3日火曜日
2019年9月1日日曜日
JBJ-01 上代文学会事件 その一 説得力という非科学的な基準
上代文学会が東京地裁に提訴されていた。学会の口頭講演会への発表の申し込みを正当な理由がなく被告が拒否したためという。事件番号は平31(ワ)6492である。
裁判の資料は誰でも閲覧できる。メモは可能だが、機械複写には許可が必要である。著書やブログでメモの内容を引用すること、意見を述べることも自由と言う。
被告(上代文学会 代表 品田悦一氏)は発表が満たすべき要件を
1 新規性
裁判の資料は誰でも閲覧できる。メモは可能だが、機械複写には許可が必要である。著書やブログでメモの内容を引用すること、意見を述べることも自由と言う。
被告(上代文学会 代表 品田悦一氏)は発表が満たすべき要件を
1 新規性
2 根拠
3 説得力
と言う。
科学技術論文の場合は一般に、新規性、独創性、影響力が問われる。新規性は内容が新しいこと、誰かが既に述べたことを繰り返しても意味がない。今さらメンデルの法則を発見したと言っても学術論文や学会発表の価値がない。独創性や独自性は他人の成果の剽窃でないということ。影響力は発表の時点ではわからない。したがって、それが正しかった場合に研究史に与える影響が大きそうだという予想が可能なことである。
日本語学会の論文審査の評価基準は
1.内容に十分な新規性があり,独創的な知見を含むこと。
と言う。
科学技術論文の場合は一般に、新規性、独創性、影響力が問われる。新規性は内容が新しいこと、誰かが既に述べたことを繰り返しても意味がない。今さらメンデルの法則を発見したと言っても学術論文や学会発表の価値がない。独創性や独自性は他人の成果の剽窃でないということ。影響力は発表の時点ではわからない。したがって、それが正しかった場合に研究史に与える影響が大きそうだという予想が可能なことである。
日本語学会の論文審査の評価基準は
1.内容に十分な新規性があり,独創的な知見を含むこと。
2.その重要性から当該分野に相当の影響を与える可能性があること。
3.論証過程が明快で,論理に客観性があること。
4.先行研究を適切に参照していること。
5.資料・データの量が必要十分であり,適正に取り扱われていること。
6.用語・表現が適切で第三者にもわかりやすいこと。
という。新規性、独創性、影響力の当該部分を太字にした。そこに「説得力」という項目はない。この奇妙な基準は万葉学会の乾善彦氏や上野誠氏も口にした。民事調停の席上調停員から伝え聞くところによると、私のク語法の論文の投稿には「説得力がない」という。
説得力は科学者、研究者が使う言葉ではない。このことは以前の「三段論法と二段論法」に書いた。以下、アリストテレースの文章から小生の訳を載せる。
「
(理由として)次に、ある種の人たちを説得するとき、たとえこれ以上にないほど正確で系統だった知識があったとしても、彼らをそのような知識を用いて説得するのは簡単でないことに気付くはずである。系統だった議論は論理的に厳密な証明を用いるが、そのような人たちの場合は論理的な説明が通用しないからである。トピカで述べたように、大衆と話すとき、証明や論証は誰もが受け入れられる原理に基かなくてはならない。
」
簡単に言えば、古代ギリシアの哲学者や今日の科学者や研究者が真理を探究する方法は論理であり、政治家や詩人が大衆を説得する方法がレトリックである。学術論文にレトリックは不要である。むしろあってはならない。
日付が変わる時刻になった。続きは明日書く。
2018年9月30日日曜日
MC-05 萬葉学会の代表の乾善彦氏の返信
2018年2月3日付けで乾善彦氏より返信が届いた。要点は以下であった。
1 3月29日に編輯委員会があるから、回答の期限を伸ばしてほしい。
2 学会でなく「個人を相手に訴訟」を起こしてほしいと伝えたが、そうならず残念だ。
3 今回のような意見が通るなら「人文学の危機」を感じる。
4 私の「誠意」と「教養人としての良心」を考慮されたい。
5 在野の研究者の投稿が掲載されないのは「論文の内容」(水準)が理由だ。
6 投稿は他の学会でもとても掲載される水準にない。
乾善彦氏は代理人の立場を誤解していたようだ。仲介に入った調停役だと考えたのだろうか。
1 これについて私は待っても良いと思ったが、代理人から見れば一方的理由で受け入れられないそうだ。私は甘いのかもしれない。
2 かつて乾善彦氏がそう書いてきたので「では自宅住所を教えてほしい」とメールに書いたのだが返信はなかった。
3 この大げさな文言を読んで萬葉学会の審査こそ科学の発展を阻害するものと感じた。
4 これではまるで私たち二人は教養人ではなく良心もないというように聞こえる。過去に何度も質問したが無視されてきた。それが乾善彦氏の言う誠意なのか。たとえば萬葉学会の会費の支払い状況を2018年1月に問い合わせたが、2018年9月になったも返信がない。
5 これは後に代理人の指示により手分けして雑誌『萬葉』に掲載された編輯委員の論文を査読した。私はそれまで興味のないテーマの論文を読まないでいた。結果は呆れるほど完成度の低いものであった。
6 この言葉には驚いた。直接私に言っていたことと正反対だからである。先にも書いたように乾氏は代理人を調停役とでも考えていたようで、私に嘘を付いていたことを裏付ける発言となった。
代理人の指示で始めた編輯委員たちの論文の水準の検討は萬葉学会の審査が代理人の言う通り恣意的であり、内に甘く外に厳しいことを痛感した。正直に言って、ここまで水準が低いとは思っていなかった。私一人の判断に万が一誤解があってはいけないので、他の専門家にも読んでもらったが、更に手厳しい評価が返ってきた。
2018年9月29日土曜日
MC-04 共闘
萬葉学会を訴えるというR氏の提案を受け入れるまでに逡巡したことは前回書いた。何もしなければ何も変わらない。しかし何かをすれば良い影響も悪い影響もある。論文の種は三十ほどある。順次投稿して行こうと考えていた。しかし萬葉学会から関連の学会へ回状が回りこの者の論文を掲載するなということがあるかもしれない。R氏はむしろ雑な審査を行なえないと考えるだろうと言う。そうとも考えられるし、そうでないとも考えられる。
弁護士費用も交通費も要らないと言う。大変ありがたい提案である。当然私のためだけに行なう裁判ではない。いわばR氏と私の共闘である。私たち以外にも排他的な審査の被害者はいるだろう。記者会見等を行なうなどして広く世間に知らしめると言う。そうであれば裁判は勝たなければならない。世の中の人の大部分は両者の言い分を十分に検討するなどということをしない。偉い学者たちの判断に個人的な不満から訴えたと思われるだろう。矢面に立つのは賭けであった。
R氏と知り合ったのも何かの縁である。それまでに様々な偶然が重なった。後で振り返ると、恐れ多いが淵田美津雄氏のような気持ちであった。キリスト教徒の知人から言われた「裁判に訴えて罪に気付かせてあげるのも愛である」という言葉も思い出した。しかし何よりも万葉集や上代日本語の研究を発展させるには萬葉学会のギルド的体質を打破しなくてはならないと思った。
萬葉学会の編輯委員たちは学術論文を短歌や俳句のような文芸作品と考えているように見えた。乾善彦氏の言う「良い論文」とは学問としての万葉学を発展させるものではなく、彼らが満足する「様式美」を備え彼らの「常識」(実は非常識なのだが)を満たすものを言うのではないかと感じる。それでは学問は進歩しない。相対性理論は光速に近い速さで運動する物体の長さが縮み質量が増大し時間が遅れることを主張する。これは一見「常識」に反する。しかし多くの人が考える常識は非常に特殊な世界でだけでしか成立しない。長さや質量や時間の進み方が一定であると考えることこそ非常識であった。
2018年1月31日に萬葉学会の代表の乾善彦氏に通知を送付した。もう後戻りできない。
2018年9月21日金曜日
MC-03 矢面に立つ決意
R氏と知り合ったのは2017年の9月であった。公開している電子メールアドレスにメールを貰った。ブログは努めて公平に書いている。そのため文章の切れ味が悪い。ネットの文章はじっくりと考えながらは読んでもらえない。素人の好事家が萬葉学会という権威にたてついていると思われるのではないかと恐れていた。さすが弁護士である。R氏は私の書くことを丁寧に読んでくれていた。
その後論文や著書を交換し、電子メールのやり取りが幾度かあった。応援してくれる読者の一人と感じていた。年末に訴訟の提案があった。萬葉学会の態度は頑なであった。聞く耳をもたないとはこのことを言うのかと思っていた。幾ら説明しても、通じなかい。「自分たちは専門家である。素人は専門家の言うことに従うべきである。」という印象を受けた。このままでは訴訟になるかもしれないとは薄々予想していた。しかしそうなると、萬葉学会だけでなく国語学の関係者を全員敵に回すかもしれない。背水の陣である。そう考えたのは、萬葉学会の壁の厚さを感じたからである。
私は企業の技術者や研究者として働いてきた。研究の真似事もし、応用物理学会などで何度も発表を行なった。海外の専門誌へ論文を投稿し採用もされた。学会を通じて他の企業や研究機関の研究者の他に、大学の教員とも親しく情報交換をしてきた。その中では萬葉学会のような「壁」は感じなかった。話せば分かる人たちだった。こちらの話を敬意をもって真剣に聞いてくれた。それが萬葉学会にはないのである。論理的に、あるいは例え話で、萬葉学会の担当者を説得しようとしても、暖簾に腕押しだった。今まで常識だと思っていたことが萬葉学会には通じない。ひょっとすると、国語学の学界はこのような自然科学や工学とは別の論理や別の常識が支配する世界なのかとも思った。また、大学の先生方は一言か二言話せば、私が彼らと同じ世界の住人であるという理解が得られた。
万葉集や古今集の論文は一般の人も読む。固体物理や核エネルギーの論文は一般の人は読まない。興味もないだろうし、内容も何年もの専門教育を受けなくては理解できない。萬葉学会は希望すれば誰でも入会できる。物理学会は正会員二名の推薦が必要である。見知らぬ人から電話やメールがあっても、二言三言話せば相手が自分と同じ専門家かどうか簡単に分かってしまう。そもそも一般の人が興味を持つ世界ではない。専門家と一般人の間に専門知識の大きな開きがある。その上研究者は世界中に分布している。だから見知らぬ人に寛容である。国語学の世界は違う。専門家と一般人の知識の差が、少なくとも理系と比べれば、小さい。国語学の専門家は一般人とは別の訓練を受けているわけではない。大学に所属しない人間は彼らから見れば「よそ者」なのかもしれない。そう考えた。よそ者はよそ者であるだけで排除される。よそ者が行動を起こせば正当であっても更に排斥されるかもしれない。それを私は恐れた。
国語国文学の「中」にいた人たちから、ガラパゴス、小さな村のような社会、ギルドなどの言葉を聞いた。ますます恐れた。
R氏の提案に即答は出来なかった。しばらく考えた。しかしこのままで萬葉学会が変わるとも思えなかった。自分たちのギルドを作り、在野の研究者(R氏の言葉)を排除し続けるならば、万葉集をはじめとする日本国民の財産が閉鎖的な団体に独占され、科学的な研究を受け付けないだろう。江戸時代に読めなかった歌は今も読めない。ミ語法、ク語法、ズハの語法など、多くの助詞や助動詞の正しい意味は未だに解明されていない。辞書の説明に従って読めば、あちこちで矛盾に出会う。このままではいけない。万葉学の方法を「と思われる」「である蓋然性が高い」という主観を束ねた非論理的な推論から、仮説と検証に基く科学に変えなくてはいけない。それが神から与えられた使命だと考え、提案に従うことにした。
R氏の描いたシナリオは最高裁まで争うことである。R氏は国政選挙の定数是正の話をされた。R氏を含め実現するとは思わなかった。それが実現した。万葉学を改革するのも困難な道かもしれない。しかし何もしなければ変わらない。R氏の言葉と信仰心の薄い私なりの使命感から矢面に立つ覚悟を決めた。
まずは民事調停を行なう。相手を裁判所に呼び出し、二三回は会って説得を試み、それで相手が応じないなら、本格的な裁判へ進む。そのようなシナリオの下で民事調停が始まった。民事調停は決裂する。それがR氏の予想であり、シナリオだった。
2018年5月23日水曜日
MC-02 民事調停は成功したのか
頭が回らないと感じたのは熱のせいでなく風邪薬のためだったかもしれない。弁護士のR先生が提案した葉学会の査読が恣意的で不平等であることが争点だったはずが、ク語法の論文の採否の是非になってしまった。第一回目の調停で萬葉学会から出された「説得力がない」は第二回目の今回は相手方が触れず、「見らくし惜しも」のような「二重の準体句がひっかかる」が新たにク語法の論文の問題点として乾善彦氏より提出された。万葉集にそのような例がないと言う。
時代は中古になるが、土佐日記に
生まれしもかへらぬものをわが宿に小松のあるを見るがかなしさ
という用例がある。「あるを見る」の「ある」と「見る」が連体形で二重の準体句である。万葉集に例が本当にないのだろうか。なかったとしても確率の問題と思う。
せっかく大阪まで行ったんだから何か大阪ならではのものを食べたかったが、風邪で体調が悪いのはどうしようもない。ちょうど新大阪始発の「のぞみ」があったので何も食べず土産も買わずまっすぐに帰ってきた。
弁護士のR氏の本を乾善彦氏がほめていた。近々書評論文が出るかもしれない。そういう在野の研究者の著書がアカデミックな雑誌で取り上げられるならば、民事調停の試みが半分は成功したことになる。
2018年5月22日火曜日
MC-01 民事調停
夏風邪で熱があるのを押して大阪簡易裁判所へ代理人のR弁護士と出かけました。新幹線の冷房対策にセーター、フリース、ウィンドブレーカーを鞄に詰め込み、下着は冬用のものという出で立ちでした。
前回は4月19日でした。その時は申立人のこちらが裁判官と調停員に説明し、いったん控え室に下がり、その間に裁判官と調停員が相手方にこちらの意見を説明し、相手の意見を聞き、相手方が控え室に戻ると、また申立人の私たちが呼ばれ、相手の意見の説明を受け、こちらの意見を言い、また次に相手方が呼ばれ、という繰り返しです。
今日は対面調停というもので、裁判官と調停員が立会いの下双方が意見を言い答えます。
代理人の指示でいくつか書類を用意して臨んだのですが、今日はそのことが俎上に乗りませんでした。人生何事も経験です。できれば体調が万全であればと思いました。熱で頭が回らない。もともと悪い頭が更に悪くなってしまいました。
人生とは面白いものでブログを始めなければ代理人と出会わなかったでしょうし、民事調停も経験しなかったでしょう。
帰りの新幹線の中では図書館から借りた解析力学の教科書を読んでいました。ランダウもゴールドスタインも持っている(昔読んだ)のですが、なるほどこういう説明の仕方もあるんだなあと感心しました。ゴールは同じですが、初学者はつまらないところで躓くものです。ずっと上代語のことばかり考えていたので、暗算力がだいぶ落ちているのを感じました。いや、これは年のせいか。
こういうことを言うとあれですが、人文系の学者が書いた論理学や相対論の本にところどころおかしなところがあるのは、やはり抽象的にものを考える訓練を理科系の人たちほど受けていないからではないか。そう思います。それは頭の良さではありません。訓練の賜物です。誰でも訓練をすればそこそこ抽象的な思考、それは言語学に必要なことですが、それができるようになります。
ミ語法の論文に言語学の本を二つ引用しました。どちらも最初のページから最後のページまですべて読みましたが、いや疲れた。著者はどちらも数学の学位を持っています。ドイツ語圏、フランス語圏は知りませんが、英語圏の言語学は応用数学です。それを数式を使わずに言葉(英文)の説明だけで抽象化して理解する。数式という便利な道具を使わないだけ余計に読むのが疲れます。
登録:
投稿 (Atom)