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2018年1月4日木曜日

TSONTS-10 今後の予定

萬葉学会のしていることは詐欺と同じだと思う。学会を名乗り、会員を募る。萬葉集の研究の発展を願う人の集まりだと在野の研究者は思う。在野というのは大学などの研究機関に所属せず、個人として萬葉集を研究している立場である。趣味ではない。それぞれがライフワークとして取り組んでいる。発表の場を求めている。雑誌『萬葉』ならば月遅れ(年遅れ)がネットに公開されている。在野の会員は自分の研究成果の発表が目的のはずだ。ある会員は幾ら投稿しても掲載されなかったと言う。その方は年金で暮らしている。萬葉学会はそういう人たちから金を徴収しながら、それに見合う審査を行なっていないようだ。ようだと言うのは、私の投稿の拒絶理由しか見ていないからだ。

私は自分の論文が掲載されないことに文句を言っているのではない。学術論文として適切な審査を行なわない萬葉学会に改善を求めているのである。在野の研究者を誘うのであれば適切な論文の審査を行なってほしい。 彼らが求めているのは雑誌の講読ではなく発表の場なのだから。

今までの経緯を振り返る。

2016年09月19日。萬葉学会と他の学会へ論文の原稿を送付する。

2016年09月25日付けの葉書で受領確認の連絡が届く。

2016年11月23日。萬葉学会にメールで原稿の採否を問い合わせる。

2016年12月14日。萬葉学会からメールで不掲載の決定とその理由が届く。
萬葉学会のP氏によると、原則として理由は知らせていないという。私のときだけは事前にしつこく問い合わせたためか、メールに添付する形で理由を送ってきた。

一読して非論理的な主張だとわかった。理由にならない理由で拒絶していた。すぐに反論をしたため、P氏にメールした。

P氏はそれを「私的にですが査読者に送ります。共通理解を得るには、何度かのやり取りが必要でしょう。」と返信してきた。

また、P氏は原稿を読んでいないというので、原稿をメールに添付したPDFで送付した。
以上は12月14日のやり取りであった。

2017年01月07日。萬葉学会にメールでその後の状況を尋ねる。査読者(本ブログで一貫してQ氏と呼ぶ)の言語学的知識が当該の論文の査読に相応しくない旨を伝える。理系の学会ならば適任でない査読者の交替の要求は当然の権利。

2017年01月13日。萬葉学会より返信がないのえ再度同趣旨のメールを送る。

2017年01月14日。萬葉学会のP氏よりメールが来る。査読理由への反論のうち、「し」の解釈については同意すると言う。しかし、「一番の問題は、構文的理解が示されていない点と、「成立を問題とする」ことの意味」だと言う。P氏は続けて「成立の組成による意味が、そのまま発話者の意味解釈につながるのか、そうでなく、すでに用法としての意味解釈になっているのかによって、モーダルな解釈が変わってきます。その点では、ク語法の場合、構文的にはやはりモーダルな面を無視できません。「あく」が終止形と連用形との二種類があるならなおさらです。」と言う。

論文では数十の用例について現代語訳を示した。それでも分からないというのだろうか。これほど大量の用例を検討するのは異例だと思う。少なくとも今までに読んだ国語学の論文にそういうものはなかった。「仮説と検証」という方法を用いたからこそ、仮説を多数の用例で検討したのである。

だいたいにして「モーダルな解釈」とは何だろう。「構文的理解」の「構文」はsyntaxなのかstructureなのか。それもわからない。それまであまり気に留めていなかった高山善行氏のモダリティにかんする一連の論文を読むことにした。それが前日までの掲載に至った理由である。

高山善行(2005)を詳細に検討したのは、国語学のような経験科学において演繹的な方法は有効でなく、仮説と検証の方法しかないことを明らかにし、裁判官に知って貰う準備であった。高山氏の言うような、純粋に演繹だけによる研究が可能なのは、人間が作った公理だけに基く数学、神の啓示の解釈だけに基く中世ヨーロッパの神学、他には憲法に基く法学があるぐらいだろう。これは科学研究の常識であり、議論するまでもないのだが、疑問に思う読者は、高山善行氏もここを読んでくれているはずであるが、下記の参考文献から和文のものでは内井惣七(1995)を参照されたい。物理の研究者と科学哲学者の討論の須藤靖、伊勢田哲治(2013)は理(法律、経済)と人文系に何故共通理解が生まれ難いかという点で興味深い。理系対文系でなく、論理に基く理系、法律系、経済系と修辞(文彩)に基く人文科学系の議論の方法の違いが大きい。言語学や国文学は本来は理系の側である。

今後は高山善行氏が何故演繹でないものを演繹と考えるに至ったか、同氏が考えるモダリティとは何か、さらに(可能ならば)それは言語類型学の中にどう位置付けられるか、萬葉学会の査読はどこが非論理的なのか、高山氏とQ氏の類似点などを書いて行く。

萬葉学会が過去に在野の研究者(国文科の学生は在野ではない)の論文を掲載したことは、国文科卒の高校教諭などを除いて例がないようである。国文科を出ていない者に萬葉集が理解できるかと考えているのだろうか。国文科を出ている大学教員でも、国語学や言語学を、その方法論においても、正しく理解してないようである。高山氏の論文の検討によりそれも明らかになってきた。今後はさらにはっきりと理解できるようにする。

いずれにしても、仲間内の大学の教員であれば適切に審査し(あるいは無条件に掲載し)、在野の研究者であれば適切な審査を行なわない(あるいは門前払いとする)ということを萬葉学会や他の古代語の学会が行なっているとしたら、上代語や中古語の研究の進展はないだろう。もしも外部の研究者をもん罪払いにするようなことをするなら、学問の健全な発展に有害である。

なお、To Sue Or Not To Sueを以下TSONTSと略すことにした。

最後に前回までと同様の引用を行う。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。


引用文献
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
村上陽一郎(1994)『科学者とは何か』(新潮社)
内井惣七(1995)『科学哲学入門―科学の方法・科学の目的』(世界思想社)
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
安田尚道(2003) 「石塚龍麿と橋本進吉--上代特殊仮名遣の研究史を再検討する」 『国語学』 54(2), p1-14, 2003-04-01
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
須藤靖、伊勢田哲治(2013)『科学を語るとはどういうことか』(河出書房新社) 高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録
高山善行(2016)「中古語における疑問文とモダリティ形式の関係」 『国語と国文学』 第93巻5号 p29-41

2018年1月3日水曜日

To sue or not to sue その9 高山善行(2005)の問題点(6) 引用すべき論文が引用されていない

高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論に「6 先行文献の引用が不適切。」と書いた。本文で言及されていない論文がある一方、参照されるべき論文が論文が引用されていない。

引用されながら本文で参照されていないのは、
Milsark,  Gary  1974.  Existential  Sentences  in  English, Doctoral dissertation.  MIT,  Cambridge,  MA.
である。There構文に関する共起制限(co-occurrence restriction)が論じられているらしい(他のトピックもあるかもしれない)。もしも高山氏がQ氏(本ブログでク語法の論文を査読した萬葉学会員) であれば、P氏が言う(おそらくQ氏の言葉そのままの)「構文的意味」と関係するのかもしれない。高山氏がQ氏であればいくつかの事実と辻褄が合う。しかし現時点で高山氏がQ氏かどうかは半信半疑である。高山氏はMilsark(1974)を引用して共起制限について語る予定だったのかもしれない。しかし共起制限は何かを演繹的に証明するものではない。その原因を探る仮定で当該の言語の構造や過去の発展について何らかの興味深いアイデアを得るかもしれないだけである(Kreger (2004)の記述を参考にした)。

引用すべきなのに引用されていないのは和田明美(1994)と山本淳(2003)である。

和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30

和田明美(1994)は例えば第6章の一人称の「む」の検討の節で


霍公鳥汝が初声は我れにもが五月の玉に交へて貫かむ(将) 万10-1939
橘は己が枝枝なれれども玉に貫く時同じ緒に貫く 日本書紀歌謡125

」 

など、「む」の有無の例を10組について検討している。同様の検討はこの箇所に留まらない。高山善行(2005)の「人」への連体修飾ではないが、「貫く」と「貫かむ」のような「ミニマルペア」の検討は先行している。

また、第6章の二節の3-VIの「「む」は婉曲を表わすか」では、「言はむ術」と「言ふ術」などの「む」の有無に基くミニマルペアの検討を行なっている。ただし、そこに示されたのは「む」のある用例だけで、ない用例は作例である。しかし、ミニマルペアを比較して婉曲という従来説に疑問を呈しているのであるから、引用して検討すべきであった。高山善行(2002)は明美(1994)を参照論文に上げている。

高山善行(2005)の引用文献に関して最大の問題は山本淳(2003)を引用していないことである。高山氏は中古語が専門であり、その中でもモダリティ(高山氏のモダリティは推量の助動詞と等しい)を詳しく研究している。その高山氏が枕草子を題材として「む」の連体形を「む」の無い形とのミニマルペアで比較し、他の語との共起関係を調べ、次の結論を得ている。


i 連体形「む」は、未確認の事実について想像する推量辞であり、「む」が持っている本来のはたらきである。
ii 連体形「む」の有無に関して、話者が未確認の事実であることを明示する必要があると判断した時に表れて、その使用については恣意的である。
iii 連体形「む」は、未確認の事実についての想像を示すということと関わって、「む」と意味的に相関する文節に推量辞を伴いやすい。


この山本淳(2003)の結論は高山善行(2005)の


Aタイプは無標の名詞句であり, 現実性一非現実性の意味解釈は基本的には文脈によって決定される。一方, Bタイプは「む」でマークされることによって, 現実性の解釈は排除され, 必ず非現実性解釈となる。


と良く似ている。似ていないと高山氏が言うのであれば、山本淳(2003)を引用して違いを明らかにすべきであった。国文系学科の紀要は他大学の国文系学科に配布されるのが通例である。中古語の推量の助動詞を専門とする高山氏である。山本淳(2003)のタイトルを見れば必ず目を通すだろう。当該の紀要が高山氏の勤務先である福井大学の国文科に配布されていなかったとしても、CiNiiのような簡単な検索サイトで発見できる。同僚から紹介もされることもあろう。無人島で電話もメールもなく生活しているわけではない。山本氏が他誌へ投稿した原稿を編集委員や査読者として高山氏が読んだ可能性もありうる。

データの整理の部分で高山氏は母数を勘案した比較を行なっていない。これについては問題点(2)に書いた。「む」のないAタイプと「む」のあるBタイプは母数が6倍近く違う。すると、Aタイプで11例共起し、Bタイプが2例共起したとすれば、共起の割合は2例しかないBタイプが11例あるAタイプより多くなる。そのようなことをすれば、たとえ悪意はなくとも、Bタイプで共起が少ないとする高山氏の主張に不利なデータを見えにくくしたと疑われる。その疑いは山本淳(2003)を引用していないことにも及ぶ。

百歩譲って高山氏が後述する安田尚道(2003)とは違い、山本淳(2003)を手に取っていなかったとしても、これは高山氏の落ち度であり、査読者は高山善行(2005)の改定を要求するのが当然である。国語学系の学会は引用文献を調べていないように思える。著者が大学の教員であれば読まずに掲載と決めているのだろうか。

査読者の盗用は、国際的な学会であれば、あり得るとして対策をとっている。しかし、それでも万全と言えないので、プレプリントサーバーへのポスティングが流行する。村上陽一郎(1994)に興味深い記述がある。第5章の「その倫理問題」の「窃盗同様の行為」の節から引用する。

もっと極端な事例として知られるのは、次のようなレフェリー絡みの話である。興味深い内容の論文原稿があるレフェリーの手許に回ってきた。そのレフェリーは、その論文にケチを付けて、著者に変更の要求とともに返送すべきである、という審査結果を出した。編集委員会が、この結果に基づいて手続きをしている聞に、このレフェリーは、当の論文の重要な部分を自分の論文に仕上げて、さっさと審査を通過させ、発表してしまった、というのである。これでは、窃盗と言われでも仕方あるまい。

そのような行為への対策であろうが、理系の世界では(90年代では)投稿した原稿のコピー一部に受付印が押されて投稿者に返送されるが、その全ページに渡って雑誌名と受け付けた日付が穿孔される。従って、何年何月に投稿した原稿が学会に受け付けられた(received)ことの証拠が投稿者の手元に残る。村上氏が書いているような行為が行なわれるのは十分想定されるだろうから、同様の対策を国語学系の学会もとっていると思っていたが、そのようなことをする学会は(関係者によると)聞かないそうである。世の中に悪人がいるとは思いたくないが、現実に起こりうることである以上、何らかの対策は必要であるし、そのような対策はまた、無用な疑いを生じさせないという効果もある。

橋本進吉氏が先行研究を引用していれば次のような論文は出現しなかった。安田尚道(2003)は橋本進吉氏の上代特殊仮名遣いの再発見が石塚龍麿氏の著作の盗用の可能性を議論したものであるが、同論文が指摘するように、「そもそもどんな学問分野でも,先行研究の存在を知らずにであろうと後から同内容の研究を行なってもプライオリティーを主張できない,というのは常識」である。しかし石塚氏の場合はアイデア(この語は国語学の世界では評判が悪いようであるが、創造的な分野では重視され、良いアイデアを生み出す能力は尊敬される)を書き留めて後世に残されたから幸いであった。そうでなければ盗んだ者勝ちになってしまう。人間には出来心というものがある。国語系の学会も原稿が盗用されにくいシステムを作るべきと思う。

最後に前回までと同様の引用を行う。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。


引用文献
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
村上陽一郎(1994)『科学者とは何か』(新潮社)
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
安田尚道(2003) 「石塚龍麿と橋本進吉--上代特殊仮名遣の研究史を再検討する」 『国語学』 54(2), p1-14, 2003-04-01
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録
高山善行(2016)「中古語における疑問文とモダリティ形式の関係」 『国語と国文学』 第93巻5号 p29-41

2018年1月2日火曜日

To sue or not to sue その8 高山善行(2005)の問題点(5) 竜頭蛇尾

高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論に「5 論文の冒頭で疑問が呈された「婉曲」「仮定」という従来説の検討が行方不明。同じく「モダリティ表現史」の検討も行方不明。」と書いた。竜頭蛇尾あるいは羊頭狗肉である。

高山善行(2005)はタイトルと要旨を含めて約3ページを費やして、従来説の連体法「む」の「仮定」「婉曲」の解釈、さらには「む」の 基本的意味とされる「推量」に疑問を呈し、「モダリティ論,モダリティ表現史の問題として捉え直してみたい」、「伝統的な助動詞研究が抱える方法論上の問題があると思われる」と述べる(以上、第1.3節まで)。

その上で第2節の「方法」で、「従来の方法は有効でなく、新しい分析方法を工夫する必要がある」として、以下の二種類の名詞句を比較し、

A 「活用語+人」
B 「活用語+む+人」

後者が共起しない表現を調べる。なお、同じ活用語の組で「む」の有無による意味の違いを調べた研究には和田明美(1994)と山本淳(2003)がある。

この論文はAとBの他の語との共起の有無を調べた結果から遡及推論により、「む」は「非現実」を明示的に表わすという仮説を得ている。この仮説は山本淳(2003)の「未確認」であることを明示的に表わすとする説と良く似ている。これについては、問題点(6)で検討する。本稿は遡及推論と書いたが、高山氏は「演繹」と考えているようである。演繹と遡及推論のどちらが相応しいかは、問題点(7)以降で検討する。

「竜頭」の従来説への疑問のうち、検討されたのは「仮定」の解釈のみで、「上記の非現実性を直感的に捉えたものと言える」と述べる。「思はむ子」が仮定であるなら、その子が非現実の存在であるから仮定なのだろうか。直感とは何だろう。山本説であれば、その子を思っているかどうかを確認していないから、やはり仮定となろう。問題点(6)で検討するが、和田論文や山本論文を引用した上で違いを詳述して欲しかった。

「婉曲」は「一方、《婉曲》という理解では、Bタイプの諸制約を説明することができない。《婉曲》については、定義の問題を含めて再検討する必要があろう」と蛇尾に終わる。「推量」についてはその後触れられてもいない。

他の「竜頭」の「モダリティ論」は単に「推量の助動詞」を「モダリティ形式」と言い替えたにしか見えない。事実、高山善行(2016)の注3に「本稿での「モダリティ」は「モダリティ形式」を指す。「推量の助動詞」と読み替えても構わない。」とある。高山善行(2011)と高山善行(2014)にある証拠性の例としてのホピ語という恐らく間違った記述(ホピ語に証拠性がないという記述も無いが、あるという記述を私は知らない)の原因をPalmer, Frank R.(1979)のmodal pastの説明に求めるなら高山善行(2014)の時点で高山氏はまだモダリティ論を理解していないと言えよう。

萬葉学会のP氏は、Frank Palmerら英米の文法学者の言うmodalityとP氏らのモダリティは違うと言うが、高山氏の著書に英米の学者の著書が引用され、参照されている。また、「連体用法「む」にはモーダルな意味(判断的意味)は認めにくく,脱モーダル化した用法と見ることができる」という。それに続く「商品に貼られたラベルのような存在」 の意味が不明であるが、「脱モーダル化」を「推量」の意味が失われたと考えるならば意味が通る。

モダリティ表現史に至っては「 「む」の記述分析が進めば,モダリティ形式の連体用法を解明する糸口がつかめるはずである。」(第1.2節)の一言で終わりである。

結局、高山善行(2005)は「非現実性」を明示的に示すという山本淳(2003)の「未確認」であることを明示的に示すと類似した仮説を提出して終わる。

高山氏の言うモダリティ論とはいったい何だったのかが正直な読後感である。 この問題については問題点(6)以降に論じる。

最後に前回までと同様の引用を行う。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。


引用文献
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録
高山善行(2016)「中古語における疑問文とモダリティ形式の関係」 『国語と国文学』 第93巻5号 p29-41

2017年11月28日火曜日

To sue or not to sue その7 萬葉学会事務局並びに編集委員宛のメール

萬葉学会の事務局と編集委員に対して、2017年11月28日22時01分に以下のメールを送信しました。高山善行氏のメールアドレスがわからないので、彼らに連絡を依頼しました。

萬葉学会 事務局御中並びに編集委員殿

拙稿に対する査読理由にモーダルという言葉がありました。編集委員からも「一番の問題は、構文的理解が示されていない点と、「成立を問題とする」ことの意味です。成立の組成による意味が、そのまま発話者の意味解釈につながるのか、そうでなく、すでに用法としての意味解釈になっているのかによって、モーダルな解釈が変わってきます。その点では、ク語法の場合、構文的にはやはりモーダルな面を無視できません。「あく」が終止形と連用形との二種類があるならなおさらです。」という指摘を受けました。

構文的理解は拙稿の現代語訳の部分に詳しく論じてあります。なぜわざわざ指摘するのか理解できませんでした。また「モーダル」という語の意味も私の理解と異なります。

査読者と編集委員のいう「モーダル」の意味を知りたく、古典語のモダリティの論文を多数書いている高山善行氏の論文を集中的に読みました。その結果、編集委員の言う「構文的理解」はおそらく査読者の言葉かと思いますが、それが高山氏がしばしば用いる意味と同一であること、また、査読者の言う「仮説としてアク接尾がもと四段動詞だと考え、その仮設された語義・語性からク語法の用例群を検証するという方法は誤りではない。」という考えの根拠を知りたく思っていましたが、査読者のその考えが高山善行氏の考えと類似していることに気付きました。

査読者や高山善行氏の考えに一部誤りがあります。それを摘しておくことは今後のためにもなります。そのような観点から、 高山善行(2005) 「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), 1-15, 2005の問題点を拙ブログで指摘しております。

つきましては、高山善行氏に以下を知らせていただきたくお願いします。

高山善行殿

高山善行(2005) 「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), 1-15, 2005の問題点を次の記事で論じています。

高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-2.html 

高山善行(2005)の問題点(2) データの整理が不適切である
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-3-20052.html 

高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論(つづき)
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-4-20051.html 

高山善行(2005)の問題点(3) モダリティの理解不足
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-5-20053.html 

高山善行(2005)の問題点(4) 主観と客観の混交
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-6-20054.html 

今後も継続する予定です。上記記事並びにその継続記事に対して意見があればコメントまたはメールにて連絡をお願いします。

以上

To sue or not to sue その6 高山善行(2005)の問題点(4) 主観と客観の混交

高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論に「4 主観的意見と客観的事実が区別されていない。」と書いた。

学術論文に主観的意見を書くことに問題はない。していけないのは主観を客観の如く書くことと主観的意見を根拠に推論を行なうことである。

同論文の第1節に連体形「む」の用法に「不明な点が多い」として

まず, 《仮定》については, 《推量》との違いが明らかでない。接続法による仮定表現との関係もはっきりしない。《婉曲》については, 本当に「やわらげ」ているかどうか疑わしいし, 「やわらげ」なければならない必然性も明らかでない。
と主観的意見を述べ(主観であることが明らかならば問題ない)、その理由として、

このような疑問が生じてくるのは, 《仮定》《婉曲》が直感的理解にとどまり, 具体的な言語事実に即した記述分析がなされていないことに起因する。

と「理由なき断定」を行なう。根拠を示さないなら高山氏の主観的な感想でしかない。事実、下の引用文献のリンクを辿ればわかるように、山本淳(2003)は従来の方法で高山善行(2005)と同じ結論を導いている。

続いて、第1.2節で、助動詞「む」の連体用法を「モダリティ論,モダリティ表現史の問題として捉え直してみたい」と述べ、現代語で推量の助動詞が連体修飾語となりにくい例をあげて、

このような問題は, 現代語だけ, 古代語だけを扱う立場では気づきにくいが, 史的対照の観点に立つと顕在化してくるものである。
」と断定する。

これも根拠が示されていない。主観をあたかも客観的事実のように表現している。しかし、同様の指摘は既にある。山本淳(2003)から引用する。

このように説明されている推量辞「む」の連体形は、古典にしばしば使われているのに対し、現代語では、
  彼にそんな酷いことは言えようはずもない(作例)
のように、ごく稀にしか使われず、一般的な言い方とは見なされない。つまりは、「む」を出自とする口語の「う」あるいは「よう」が、連体形の用法を「む」から十分には引き継いでこなかったと考えられるのである。
山本氏が古典語の「む」と現代語の「よう」の対比しか記述していないのに対して、高山氏は「む」と「だろう」以外に、終止形「なり」、「けむ」などを追加しているが、例が増えただけであって、古代語で連体用法が盛んに使われたのに現代語では衰退したという点で同じ論旨である。

さらに、高山善行(2005)の上記引用箇所に続く次の記述。

それは, モダリティ表現史を明らかにする上での重要な課題の一つと言える。

これも主観的な感想である。古代語と直接対応がない「そうだ」や「に違いない」を追加したため「表現史」とは言えなくなってしまった。助動詞の用法の変化を辿るということであれば、「む」と「う」「よう」の変化だけに絞るべきである。語源や構成が違う単語をモダリティの名前で一括りにしても得られるものは少ない。Palmer (2001)が細かな検討を行なっているように、印欧語の直説法と接続法(subjunctive)とアメリカ先住民やパプア・ニューギニアの言語のrealisとirrealisは良く似た使われ方をする。一方、主節で使われるか、疑問文や否定文ではどうかという点で異なる。言語類型学の扱う問題は殆どがそうだろうが、ムードとモダリティも、荒っぽく見ればどれも同じ、細かく見れば一つ一つ違うという、当たり前の現象、つまり高山氏の言う課題があちこちにある。

第1.3節に

これまで, 連体用法「む」を正面から取り上げた研究はほとんど見られず, 助動詞研究の中で最も扱いにくいテーマの一つと言える。その背景には, 伝統的な助動詞研究が抱える方法論上の問題があると思われる。
」とある。

高山善行(2002)が引用して高山善行(2005)が引用しなかった和田明美(1994)や高山氏が見ていないかもしれない山本淳(2002)がある以上、「ほとんど見られず」とは言えない。また、「扱いにくいテーマ」かどうかも客観的にはわからない。一番の問題は「伝統的な助動詞研究が抱える方法論上の問題があると思われる」である。「思われる」ならば、誰が見てもそう思う状況だろうが、これは高山氏だけの感想である。「と思う」と書くべきである。

続いて、

しかしながら, 本稿のテーマに関しては,一般的な方法は通用しにくいと思われる。連体用法「む」は現代語に置き換えにくいため, われわれ現代人にとっては「む」の意味解釈がきわめて困難である。大量の用例を帰納したとしても, その問題が解消するわけではない。「む」の使用条件,使用文脈といった周辺的な情報は蓄積されるだろうが,「む亅の性質を直接的に捉えることはできない。
」とある。

 「通用しにくいと思われる」は「通用しにくいと思う」とすべきである。「思われる」は万人がそう思う場合の表現である。「われわれ現代人にとっては「む」の意味解釈がきわめて困難である」も主観表現である。では、ロゼッタ石の碑文はなぜ現代人が解読できたのだろう。仮説と検証という科学的手段を用いたからである。今までの国語学が行なってきた現代語からの類推で解読しようとするから解決できないのである。古代語の母語話者でない我々が感覚的に意味を理解するのは言うまでもなく無理である。高山善行(2005)が主張する演繹的方法が行なえないことも既に見てきた通りである。仮説を立て、検証し、棄却されたらまた別の仮説を立てる。その繰り返し以外の方法はない。

第1.3節は更に、

 だが, 野村(1995),尾上(2001) が指摘するように, 「む」の基本的意味を《推量》と見ることには問題がある。また, 多義的なモダリティ形式の文末用法での意味を安易に文中用法へとスライドさせるべきではない。「む」については, 文中用法と文末用法を別個に精査した上で, 両者を総合するという手順をふむ必要がある。
」と続く。

「 多義的なモダリティ形式の文末用法での意味」は多義的な表現である。モダリティ形式が多義的なのか、その文末用法が多義的なのか。また、モダリティ形式は「む」と同義なのか、他の助動詞の「らむ」「けむ」を含むのか。モダリティ論という曖昧な表現を用いたために意味がわかりにくくなっている。

「スライド」の使い方は萬葉学会のQ氏のplainの使い方を彷彿とさせる。用言の意味が終止形と連体形で変わらないとは言い切れないが、あるとすれば非常に例外的である。終止形「む」と連体形「む」の意味が異なるならば語源が異なる別の単語と見るべきである。両者が同じ単語であるならば、疑うべきは推量とされる終止形「む」の意味である。問題なのは「安易にスライドさせる」ことではなく、「む」の意味を推量と決め付けたことであろう。

「文中用法と文末用法を別個に精査した上で, 両者を総合するという手順をふむ必要がある」は高山氏の主観的意見であるから「必要があると私は考える」とすべきである。

この後の推論の部分にも主観と客観の混交があり、それが間違った結論を導くのだが、それについては既に述べた。

最後に前回までと同様の引用を行う。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。


引用文献
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録


2017年11月26日日曜日

To sue or not to sue その5 高山善行(2005)の問題点(3) モダリティの理解不足

その2 高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論に三番目の問題点として「3 モダリティ(modality)の意味が正しく理解されていない。 また、高山氏の言う「モダリティ形式」は「推量の助動詞」を言い替えただけにしか見えない。」と書いた。

高山善行(2005)の「要旨」には
 助動詞「む」は連体用法で《仮定》《婉曲》を表すと言われているが, 実際にはよくわかっていない点が多い。本稿では,このテーマをモダリティ論の視点から捉え直し, 新しい分析方法を提案する。
とある。「はじめに」には
助動詞「む」は連体用法で《仮定》《婉曲》を表すと言われ, 古典文法では, 「仮定婉曲用法」の名で知られている。しかし実際には, この用法での「む」の性質はよくわかっていない点が多い。本稿では, この問題をモダリティ論の視点から捉え直す。そして, 連体用法での「む」の機能を明らかにすることを目標とする。 
とあり、「研究の目的」には
 本稿で取り上げるテーマは助動詞「む」の用法のひとつであり, 助動詞論で扱われるのが通常である。以下では, それをモダリティ論,モダリティ表現史の問題として捉え直してみたい。
」 (1.2節)
とある。 

以上を総合すると、高山善行(2005)が扱う題目(テーマ)は「助動詞「む」の連体用法が《仮定》《婉曲》を表すとされること」であり、それを従来の助動詞論ではなくモダリティ論から検討することが窺える。

なお、英文アブストラクトには
A number of previous studies have made an analysis of the adnominal usage of the Old Japanese auxiliary mu based on inductive methods; however, the essential problems have been left unsolved. This paper investigate sand describes the adnominal usage of mu based on a deductive method.
とあり、《仮定》《婉曲》と「モダリティ論」の文言はない。代わりに、従来は帰納的方法、本論文は演繹的方法という点が強調されている。なぜ英文アブストラクトから削られたかは分からない。高山氏からのコメントを待ちたい(※)。

※ この連載記事については萬葉学会を通じて高山氏へ伝えることとする。その内容について次回掲載する。

高山善行(2005)とよく似た論文がある。山本淳(2003)である。しかし、高山氏は
これまで,連体用法「む」を正面から取り上げた研究はほとんど見られず,助動詞研究の中で最も扱いにくいテーマの一つと言える。その背景には,伝統的な助動詞研究が抱える方法論上の問題があると思われる。
」(1.3節)
と書き、注6で
連体用法「む」を正面から取り上げた,数少ない研究としては,小林(1992)がある。
と述べるに留める。大学の国文科の紀要類は大学間で送付しあうのが通例であるから、山本淳(2003)を掲載した「山形県立米沢女子短大紀要」を高山氏が勤務していた福井大学の国語学教室が所有していなかったとは考えにくい。タイトルを見れば必ず読むはずである。山本氏の論文も正面から取り上げた数少ない研究である。

さらに高山善行(2002)が引用して高山善行(2005)が引用しない和田明美(1994)は「む」に関する網羅的な研究であり、連体「む」についても、高山善行(2005)にいうミニマルペア、要するに、「む」の有無の比較を行なってもいる。高山市はなぜ和田氏の論文を引用しなかったのだろう。

高山氏が他の著作で引用していた和田氏の論文も、恐らく高山氏が目にしたであろう山本氏の論文も、高山善行(2005)が用いたと同様、連体「む」の有無の比較を行っている。伝統的な助動詞研究が抱える方法論上の問題はないのではないだろうか。また、高山氏が用いた共起の有無についても、山本淳(2003)に(連体「む」が)
ある一定の条件下に必然的に行われるのか(他の語と共起する関係にあるのか)
」(3章)
という文言があることから、伝統的な助動詞研究が行えない研究方法と言えない。 

高山氏が強調する「モダリティ論」は「推量の助動詞」を「モダリティ形式」とした用語の置き換えにしか見えない。他は従来の助動詞論と変わらない。ただ一点だけ、「結論」の章に
 なお、見通しとして述べれば,連体用法「む」にはモーダルな意味(判断的意味)は認めにくく,脱モーダル化した用法と見ることができる。それは商品に貼られたラベルのような存在である。
とある。

「ラベルのような存在」は学術文献で用いられる比喩にしては文学的過ぎて私には意味がわからなかった。「脱モーダル化」は「脱推量」と言い替えられる。先行の山本淳(2003)も連体「む」が仮定や婉曲を表わすとする通説への疑問から出発して、前回の高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論で述べたように高山善行(2005)と同様の結論を導いている。とすれば、高山善行(2005)はモダリティ論を用いることを必須としているとは言えない。

したがって、高山善行(2005)でモダリティ論は何の役割をも果していない。モダリティ論を用いたと言うのであれば、今まで多数の言語のmoodやmodalityの比較の研究で得られたtypology(言語類型論)の成果を応用しなくてはいけなかったが、高山氏はそれを行っていない。

それに加えて、高山氏は少なくともこの論文を書いて時点でmodalityを十分に理解していなかったのではないかという疑問が生じる。それは「脱モーダル化」の文言である。ムード(直説法以外)やモダリティを一言で言えば、irrealis(非現実様相)を用いた表現形式である。このことはPalmer (2001)に何度も述べられている。

Palmer (2001)の例を引用する。

5-1 Mary is at home.
5-2 Mary must be at home.
5-3 Mary may be at home.
5-4 Mary will be at home.

直説法を用いた5-1だけがrealis(現実様相)、つまり、既に起こった、あるいは、今起こっているevent(事象)であり、かつ、話し手が直接見聞きしたことである。5-2から5-4は話し手が直接見聞きしたことでなく、その思考の中に存在する。古代ギリシア語の直説法、命令法、接続法、希求法の四つのmoods(法)の、命令、接続、希求の三法は話し手の思考の中にある事象である。

以上の点に注意を払えば、連体「む」がirrealisを表わすと言いながらmodalityでないとは言えない。また、そもそもmodalityはirrealisを用いた表現であるから、「む」をmodalityと考えることは「む」がirrealisを表わすことと同義である。逆に高山氏がそのように捕らえていないということは、高山氏が用いたのはモダリティ論でなく、伝統的な助動詞論の言い換えに過ぎないと言える。

高山善行(2011)に次の説明がある。
メリ,終止ナリはそれぞれ,《視覚,聴覚で得た情報をもとにした判断》という意味的特徴をもち,エビデンシャリティ(evidentiality)を表す形式といえる.エビデンシャリティとは,証拠に基づいた判断を表し,他言語(ホピ語など)においても見られる.
」(p58)

ここがわからなかった。ホピ語とは何だろう。Palmer (2001)によれば、evidentialityはアメリカ大陸先住民の言語に見られると言う。ホピ語はアメリカ大陸の言語である。しかしPalmer (2001)にホピ語の例はなかった。

Palmer (1979)の飯島周氏の翻訳を高山善行(2002)が引用している。高山氏は次の部分を誤解したのではないかと思う。Palmerの二つの著作を見たが、Hopi語に言及しているのはその本の次の箇所だけである。
 「
言語によっては,文法的な時制の体系(temporal systems)を持たず,‘文法化された'法的な区別(‘grammaticalized' modal distinctions)を持つ(Lyons 1977: 816)ものがあることも重要である.たとえばアメリカインディアンのホピ語(Hopi)には(Whorf1956 :5 7-64,2 07-19), 3種の‘時制'があるが,これはLyons(1968: 311)によれば‘法(moods)'として記述するほうが適切である.第1は一般的な真実の陳述,第2は知られている,または知られていると思われる出来事についての報告,第3はまだ不確定の範囲にある事件に関するものである.第2と第3は,非法(non-modal)および法(modal)として対照的に見えるが,第2は過去時の事件, 第3は未来の事件を一般に示す.この言語での時の指示は本質的に法性の指示に由来する.
」(p8)

Palmer (1990) の当該部分。

It is also important to note that there are some languages that do not have temporal systems at all in their grammar but rather have 'grammaticalized' modal distinctions (Lyons 1977: 816).  Thus, in the American Indian language Hopi (Whorf 1956: 57-64, 207-19), there are three 'tenses' which Lyons (1968: 311) suggests might be more appropriately described as 'moods’.  The first is used for statements of general truths, the second for reports of known or presumably known happenings, and the third for events still in the reach of uncertainty.  The second and third would seem to be clearly contrasted as non-modal and modal, but it is also the case that past time events will normally be referred to by the second, and futures events by the third.  Indications of time in this language are essentially derived from indications of modality.

現実様相(realis)と非現実様相(irrealis)の対立があるからこそ、LyonsやPalmerはそれを法(mood)や様相性(modality)と記述している。そのことを高山氏は理解せず、それを証拠性(evidentiality)と誤解したようである。

つい最近、高山善行(2014)を読んだ。この推測はいっそう確かさを増した。
メリ、終止ナリはそれぞれ、〈視覚、聴覚で得た情報をもとにした判断〉という意味特徴をもち、「証拠性」(evidentiality)の形式とされる。「証拠性」とは、その事態に関する情報の出所視覚・聴覚、伝聞などに基づいた判断を表し、他言語ホピ語などにおいても見られるPalmer(2001: 8ではモダリテイの一種とされている)。
」(p141)

Palmer (2001)はアメリカ大陸の言語を例にあげevidentialityを説明する。一度でも読めば、繰り返し登場する言語の名前は覚えてしまう。例えば、Central PomoやTuyucaである。覚えなかったとしても、Palmer (2001)を読めば、Hopi語を例にあげることはしない。対偶をとれば、Hopi語を例にあげるのはPalmer (2001)を読んでいないからである。

更に言えば、モダリティが非現実様相(irrealis)を用いた表現という基本的な点さえ理解していないならば、高山善行(2005)の言うモダリティ論は従来の陳述論の単なる言い替えに過ぎない。

最後に前回までと同様の引用を行う。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。


引用文献
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2005)「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), 1-15, 2005
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録

公開後細部の訂正を行なった。最終版は2017年11月28日午後7時48分の更新である。

2017年11月21日火曜日

To sue or not to sue その4 高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論(つづき)

高山善行(2005)が演繹でない推論を演繹と述べ、その推論が論理的誤謬(fallacy)でもあることをTo sue or not to sue その2 高山善行(2005)の問題点(1)に書いた。言語学(国語学)は物理学や化学、生物学などと同じく経験科学の一分野である。経験科学が新しい知見を獲得するのは帰納的な方法によるしかない。これは科学の常識である。国語学系の読者のために和文の参考文献として以下をあげる。

ハンス・ライヘンバッハ著、市川三郎訳、『科学哲学の形成』(みすず書房 1954)
カール・ポパー 著、大内義一、森博訳、『科学的発見の論理』(恒星社厚生閣 1971)
内井惣七著、『科学哲学入門』(世界思想社 1995)

英語が嫌いでなければ、本稿が参照したReichenbach (1951)とPopper (1959)が良いと思う。日本の哲学者たちからReichenbachは終わった人と看做されているようだが、理系の学生は教えられるところが多いはず。

経験科学において新しい知見を得るのに「演繹的方法を用いた」と書くのは 「占星術を用いた」「火星人に教えられた」などと書くのと同じである。なぜ高山氏はそのような主張に到ったのだろう。

高山善行(2002)は「4・3 帰納主義と演繹主義」で
伝統的な解釈文法では、徹底的な用例の帰納、類型化という方法が取られていた。そこで得られたデータが現在の文法史研究の基礎的な部分を担い、大きく貢献していることは事実である。なるほど、帰納主義の方法によって、用例分布の量的傾向、偏りは明らかになるだろう。しかしながら、用例分布の量的傾向の報告にとどまるなら、表面的な現象の観察だけで終わってしまう。用例が「なぜ無いのか」という問題に踏み込まなければ、文法現象の整理はできても説明ができない。
と述べ、北原保雄(1984)を参照して、
北原保雄(一九八四)は、文法研究で帰納法重視の方法から演緯法重視の方法への転換を提唱しているが、・・(中略)・・本書もこうした考え方を基本的に支持するものである。もちろん、ここでの演緯重視は、用例の帰納を軽視するものではけっしてない。徹底した用例の帰納は必要である。要は、現象の整理にとどまらず、用例非存在の論理を考えなければならないということである。「用例が存在しない」ことも、(その必然性が問えるとすれば)価値ある言語現象の一つである。
 」
と結んでいる。

しかし、北原保雄(1984)が述べる「経験科学における演繹的研究」は
要するに、観察記録(protocol statement)を「説明」しうるもの(ここでいう「説明」とは、そこで説明される発言・命題を導き出すような理論体系を作りあげることである)として仮説(hypothesis)が立てられるというだけでは言語理論の大きな体系は構築されないのであって、その仮説が他の経験的事実にも広く適用されうるものであることの「検証(verification)」が重要なのである。
と北原氏が書くように、仮説と検証という帰納的方法である。ちなみに私が「ズハの語法」「ク語法」「ミ語法」の論文で用いた方法でもある。数理科学においては特に「仮説演繹法(hypothetico deductive method)」と言い、「説明的帰納法(explanatory induction)」とも呼ばれる。

例をあげて説明する。ニュートンの重力の式という仮説がある。二つの物体の間にはそれぞれの質量の積に比例し、物体の重心の間の距離の二乗に反比例する力が働く。

式4-1 F = G M m / r^2

Gは重力定数、Mとmは物体の質量、rは物体の重心の間の距離である。なお、上に書いた「仮説」という言葉を奇異に感じる読者はKarl Popper (1972)の

All theories are hypotheses; all may be overthrown.
理論はすべて仮説である。すべてが覆されうる。

を参照されたい。

式4-1から惑星の運動が演繹される。仮説である式をあたかも公理の如く扱って、そこに数値を代入したり、式を変形したりして、何らかの結果を導く。その結果が現実の観測と一致するかどうかを調べる。仮説から演繹されたものが観測事実と異なれば仮説は棄却される。一致するならば、当面はその仮説を正しいものとして扱う。これが仮説演繹法である。名前に演繹の文字があるが、帰納法の仲間である。

北原氏は仮説演繹法を演繹的研究として説明した。しかし高山氏は仮説演繹法を演繹的方法と誤解したのではない。もしもそうであれば、高山善行(2005)は仮説と検証という経験科学の正当な方法を用いていたはずである。高山氏の誤解は二つある。第一に、経験科学で演繹的方法が有効であると誤解したこと、第二に、後件肯定という論理的誤謬を演繹と誤解したことである。そのため、高山善行(2005)の推論は北原保雄(1986)が説くのとは全く異なるものになってしまったのである。

査読者を惑わし、おそらく自分自身をも惑わせたのは、高山善行(2005)の4.1節の
「む」は名詞句の非現実性を明示する標識(marker)として働いている。
という文言であろう。

言語学でいう標識(marker)は抽象的なものでなく具象的な存在である。具体的には、日本語であれば、接頭辞、接尾辞、助詞、助動詞を言う。「標識(marker)として働いている」ではなく「標識(marker)である」と言うべきである。

つまり、

式4-2 標識 = 接頭辞+接尾辞+助詞+助動詞

であり、これは次の式と同様である。

式4-3 助詞 = 格助詞+係助詞+副助詞+接続助詞+間投助詞+終助詞

格助詞の「を」は対格を表わす標識である。次の表現は等価である。

式4-4 「を」は対格を表わす標識である。
式4-5 「を」は対格を表わす助詞である。
式4-6 「を」は対格を表わす格助詞である。

同様に次の表現も等価である。

式4-7 「む」は非現実性を示す標識である。
式4-8 「む」は非現実性を示す助動詞である。

時代別国語辞典の上代編の「む」の項には次の説明がある。
動詞・形容詞・助動詞の未然形(形容詞は~ケの形)に接して、非現実の事柄について予想をあらわすのを原義とする

高山善行(2005)の4.1節の推論と5節の結論は、演繹ではなく、「む」の連体形が現実の事象と共起しにくいという観察結果の理由の推測である。ロッカーに入れておいた財布の金がなくなっている、という観測結果を説明しうる原因として、特定の人物が盗んだという仮説が成り立つが、その仮説が演繹されたわけではない。財布の金がないという結果を導きうる原因は他にも存在する。

上記の推論は、正しくは、連体「む」が現実世界の事象を記述する例を「蜻蛉日記」「枕草子」「源氏物語」の中に見出せなかった理由として、「む」は非現実の事柄を予想するという従来の仮説が有効であることを確認した、というものであろう。

なお、同様の記述は山本淳(2003)にもある。結論の一部を引用する。リンクから原論文を参照されたい。

i 連体形「む」は、未確認の事実について想像する推量辞であり、「む」が持っている本来のはたらきである。
ii 連体形「む」の有無に関して、話者が未確認の事実であることを明示する必要があると判断した時に表れて、その使用については恣意的である。
iii 連体形「む」は、未確認の事実についての想像を示すということと関わって、「む」と意味的に相関する文節に推量辞を伴いやすい。

なお山本氏はiとiiiとここに引用しなかったviについて「先行研究にもすでに明らかにされている」ことを附言している。逆に言えば、iiは山本氏が得た新知見であろう。高山善行(2005)の次の記述(第5節)は山本淳(2003)のiiと同じ趣旨であろう。

Aタイプは無標の名詞句であり, 現実性一非現実性の意味解釈は基本的には文脈によって決定される。一方, Bタイプは「む」でマークされることによって, 現実性の解釈は排除され, 必ず非現実性解釈となる。


既にある山本氏の説を「演繹」により導いたのならば高山善行(2005)に価値があるが、高山氏の推論は演繹でないし、そもそも言語学(国語学)のような経験科学において演繹により新知見が得られることはない。

最後に前々回と前回の引用を繰り返す。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。


引用文献
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
北原保雄(1984) 『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994) 『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
高山善行(2002) 『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)