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2020年5月27日水曜日

JBJ-21 水戸黄門的世界 非理性主義 反多元主義 万葉ポピュリズム The Tabito Code 上代文学会事件

テレビドラマの水戸黄門が人気なのはその単純明快な筋立てである。善良な百姓や町人と悪代官や悪徳商人という対立の構図。代官と商人は徹底して悪人であり、百姓と町人はどこまでも善人である。だから分かりやすい。それが大衆に好まれるのは大衆に知性がないからではない。一日の労働に疲れた頭は不条理劇など受け付けない。却って疲れが増してしまう。しかし大衆はそれが虚構の世界だと知っている。現実の世界がそれほど単純でないことも知っている。虚構の世界の出来事と理解して楽しんでいるのだ。

ポピュリズムは現実を虚構の世界のように単純化する。善良な我々と悪辣な一部の特権階級という分かりやすい対立の構図を大衆に信じ込ませる。善良なドイツ人と悪辣なユダヤ人。道徳的な農民と退廃的な貴族。善なる多数と悪なる少数という対立の構図を多数派に信じ込ませる。ポピュリズムに左右はない。ナチスもナロードニキもともにポピュリズムである。ナロードニキが悪だと言っているのではない。一般的にポピュリズムは善と悪の両側面を持つ。特徴は善良な多数と悪辣な少数という対立の構図を作るところにある。

しかし水戸黄門的な世界観はJan-Werner Müllerによるとポピュリズムの必要条件でしかないと言う。ポピュリズムの十分条件は反多元主義(anti-pluralism)だと言う。ポピュリストは価値観の多様性を認めない。自分たちだけが正義であると主張する。それは確かに悪だ。

万葉ポピュリズムとは何だろう。万葉集は貴族から大衆までというならそれはポピュリズムではない。大衆も貴族も一つに団結しようと言っているに過ぎない。むしろ反ポピュリズムである。逆に万葉集は貴族のものだからと言って否定するならポピュリズムである。

しかし万葉集の作者は本当に貴族だけだろうか。民謡なら土地の人には自明の地名を盛り込まないという仮説がある。例えば「葛飾の真間」「鎌倉の見越」「信濃なる千曲」などの地名の重複である。馬の貴重さとともに万葉集の作者に庶民はいないという仮説の根拠となっている。しかし「土佐の高知のはりまや橋」や「木曽の御岳さん」が反証になりその仮説は否定される。日常会話と民謡は違う。広い場所を表わす地名を入れて誇ることもあるのだ。十分な検証を行わない仮説を自明のごとく扱うのは非理性的である。

悪の安倍政権とそれに反対する善良な我々という構図を理由もなく一般化するのはポピュリズムである。私は安倍政権を支持しているわけではない。安倍政権に反対するなら政策を批判すべきである。個人の人格や知性は政策とは別の問題である。しかしポピュリズムが既存権力を批判するときにしばしば政策とは別の個人の資質を攻撃してきた。ポピュリズムは非理性主義に陥りやすい。

品田悦一の雑誌「短歌研究」への「緊急投稿」はネットで多数の支持を得たようである。支持者は品田の分析を理解した上で支持しているのではない。正しく読めばそこにある論理の矛盾に気付いただろう。相手の人格を攻撃する「「迂闊」が読めないと困るのでルビを振りました」や「高校生なみの学力さえあればたぶん理解できるだろうと思います」のような記述が反対派に受けたのである。しかし人間を人間としてrespectしていない。

人間を生身の人間として同じ血が通った存在として認めるのがrespectである。安倍晋三の政策を批判するのは大いに結構だ。私もその政策に賛成ではない。しかし現実の人間を虚構世界の生き物のように扱うのは大人のすることではない。

最近日本で起こった痛ましい事件についてThe Washington Postが記事を載せている。プロレスラーがネットの誹謗中傷により自殺に追い込まれた事件である。私は今この記事を書いていて涙が止まらない。彼女は生身の人間であって虚構の世界の生き物ではない。なぜその区別が出来ないのか。

そのような非理性主義の台頭を防ぐのが人文科学の役割であった。それが行なわれないのはなぜか。日本の文学部が考える方法を教えないし訓練しないからである。理系の学部は数学や日々の実験や演習で論理を教えられ訓練される。しかし人文系は論理学を学び討論で訓練されなければ考える方法を身に付けられない。野生のままの思考である。

原告の仮説が荒唐無稽だと言うなら品田の「緊急投稿」の大伴旅人の暗号という仮説は更に荒唐無稽である(註1)。老子や荘子を読んだことがあるなら旅人の歌に老荘思想を見ることはできない。これは前に書いた。長屋王事件で「権力者の横暴を許せないし、忘れることもできない」と感じたかどうかは分からない。肯定する証拠も否定する証拠もない。

註1 品田悦一の「緊急投稿」の分析は以下のブログ記事で行なった。
品田悦一の言う「間テキスト性」 The Tabito Code
品田悦一の言う「テキスト」とロラン・バルトの言う「作者の死」 The Tabito Code
「令和」から浮かび上がらない大伴旅人のメッセージ The Tabito Code 

しかし梅花歌の序文に暗号を織り込んだろうか。当時の日本人が四六駢儷文を書こうとするなら母語話者の書いた漢文から表現を借用するしかない。現代の日本人が和英辞典を使って英文を書くのと同じである。和英辞典の用例は誰かの書いた英文の引用である。しかも序文は様々な漢籍との間に間テクスト性がある。仮に暗号にしようとしても解読のしようがないから暗号になり得ない。それを暗号と考えるほど大伴旅人が知性的でなかったとはとても思えない。

原告は動詞連体形に下接する「なり」があるとした。それは定説に反する。しかしその定説は万葉集や続日本紀宣命などの多いとは言えないテキストの中にその用例がないと言っているだけである。存在したかどうかは旅人が「権力者の横暴を許せないし、忘れることもできない」と感じたかどうかと同じくらい不確かである。事実万葉集の用例にそれがあるとする大学教員の論文がある。それは以前に書いた。

連体形に下接する「なり」が上代の文献に見出せないという知識は研究者間で共有されるべきと言うが、「間テキスト性」や「テクスト論」や「ポピュリズム」という用語が何を意味するか、老荘思想がどういうものかという知識と論理的に考える方法も研究者間で共有されるべきである。

結局上代文学会の判断は原告が国文科の教育を受けていないからその仮説も間違いだとする非論理的なargumentum ad hominemという論理的誤謬(fallacy)である(註2)。そのような判断は理性に反する。更に自分たち以外の価値観を認めないという態度は反多元主義である。Müllerによるポピュリズムの十分条件を満たしている。

註2 Wikipediaの日本語版に「人心攻撃」とある。この訳語は誤解を与えそうである。「人に向かう論法」とすべきと思う。上代文学会事件で言えば、原告の投稿を内容ではなく、原告の受けてきた教育を理由に拒否することである。

文学部はポピュリズムや非理性主義に対する防波堤であってほしい。現実と虚構の区別が付かないような考えを排除してほしい。そのためには文学部の個々人が論理的な思考を身に付けること、主観と客観を区別すること、非理性的な思考やポピュリズムを自説の流布に利用しないこと、文学部のギルドを解体し在野の研究者の論文を受け入れること、在野の研究者の知性をrespectすることである。

私は品田悦一の人格を攻撃しているわけではない。品田の主張の中にある論理の誤謬を指摘しているだけである。私は誰かを嫌っているわけではない。非論理的な主張が嫌いなのである。非論理的な主張をした品田が嫌いなのではない。品田が生身の人間であるように私も生身の人間である。

私は時代劇を見るのが好きだ。しかしそれが虚構の世界であることを知っている。私は理系の研究者や技術者として働いてきたが、数えきれない日本の文学作品を読んできた。欧米の文学や漢籍やギリシアやローマの古典も読んできた。けして「猛きもののふの心」ではないつもりである。しかし研究の場では論理的でありたいと考えている。

参考文献
Jan-Werner Müller (2016.9) What is Populism? University of Pennsylvania Press.  板橋拓己訳(2017.4)『ポピュリズムとは何か』(岩波書店) この本は翻訳を読んだ。
品田悦一(2019.5) 「「令和」から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ(新元号の深意)」 雑誌『短歌研究』 20195月号
品田悦一(2020.3) 「「沸騰」講演録 二カ月連続、掲載! 踊らされてはいけない、ぼーっと生きていちゃいけない。 万葉ポピュリズムを斬る(前篇)」 雑誌『短歌研究』 2020年3月号

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