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2020年5月21日木曜日

JBJ-19 研究者の条件 上代文学会事件

上代文学会事件の原告(講演発表の募集に応募し拒絶された会員)が自身を「在野の研究者」と紹介したのに対して被告(上代文学会 代表品田悦一)は原告が研究者であるとは「不知」だとし「正業」(本業の意味らしい)が弁護士であると応じた。

原告の言う研究者は「研究をする人」の意味である。これを「研究者(G)」とする。被告の言う研究者は「 何らかの研究機関に所属し職業として研究をする人」の意味のようである。これを「研究者(H)」とする。「ようである」というのは被告が定義を述べていないからである。被告の答弁書や準備書面からの推測である。

研究者(G)と研究者(H)の違いは定義が広義か狭義かの違いに見える。しかし被告にはそれが重要なのであろう。 原告にはぜひ被告の定義を問うていただきたい。勿論論文の評価は著者が誰であるかとは独立である。

理系の世界では学会誌に論文を投稿したり学会で口頭講演をする人は研究者である。ただし学会へ入会するには正会員の推薦を必要とすることが多い。口頭講演は会員が申し込めば原則としてすべて認められる。推薦は当該の学会が認める研究者の条件を満たしているかどうかの判定のためと思う。

その条件は何か。物理学会の会員は全員が大学の物理関連の学科の博士課程を修了しているか。そんなことはない。理学部や工学部の博士や修士が多いが学部卒の人もいる。日本物理学会の会員名簿を今ざっと見た限り所属は大学より企業が多い。

理系文系に限らず世界が認める研究者の条件とは何か。それは誠実であることと論理的であることである。実験や観察のデータは事実として他の研究者が拠り所とする。それを捏造されては困る。また他人の研究成果やアイデアを盗む人がいても困る。もちろん誠実さは「研究の場」に限ってのことである。職場や家庭などの「日常の場」でのことは問わない。それを認めるというのではない。学会が口出しできる範囲の外だからである。

たとえば死刑囚が投稿した論文が受理され学会誌に掲載されることがある。近年では2018年1月に死刑が確定した人の論文が2018年7月と8月の雑誌にそれぞれ掲載されている。日常の場で犯した罪は日常の場が裁く。研究の場が裁くことではない。しかし研究の場でデータを捏造したりアイデアを盗用したりなどをすればその人は研究者生命を奪われる。

国語学では自説を批判されただけで怒る人がいると聞く。理系に限らず国際的な研究の場で相互批判は当然である。そのためには論理的な思考が要求される。論理的な議論が通じない人と議論しても益がない。

多くの人は自分は論理的であると信じている。しかし論理は訓練しないと身に付かない。生まれながらの人間の多くは非論理的である。認知や思考の歪みがあるからである。そのような歪みを心理学や社会心理学の実験が明らかにしてきた。それは訓練で矯正するしかない。論理的な思考は訓練の賜物である。

アリストテレースは三段論法(syllogism)類型化した。そこにBarbaraやDariiという名前が付けてあるのはその体系を暗記するためのラテン語の詩があるからである。日本の歌学が係り結びを覚える和歌を作ったのと同様にヨーロッパは倫理学を覚える詩を作った。アリストテレースのような天才には自明のことだと思うが弟子たちにはそうでなかった。だからこそアリストテレースはそれを類型化した。そしてイスラム圏に伝えられ後にヨーロッパに逆輸入され学ばれた。

リベラルアーツの基礎は三学(trivium)四科(quadrivium)とされるが、その三学の一つが論理学である。生まれながらの人間は論理的でないから学んで訓練されないと論理的な思考が身に付かない。

論理学は「私がそう思うから」「皆が言っているから」 「偉い先生が言っているから」のような主観的な理由を排除する。研究者が有益な議論を行なうためには客観的な事実や演繹的な証明と主観的な意見は区別されなくてはならない。今まで何百報(註1)もの国語学の論文を読んできたが、事実と意見の区別がなされていないものが大半であった。演繹と帰納の区別もおぼつかないと感じた。しかし「万葉学者は頭が悪い」のかに書いたように国語学の論文に非論理的な記述が多いのは単に論理的に考える訓練を受けていないからだと思う。

註1 理系の世界では論文を数えるのに「報」や「編」を用いる。会話では「本」を用いるが正式の文書には書かない。

専門用語を正しく使うことも研究者間の意思疎通のために重要である。専門用語は多義性を排除するために明確に定義されている。定義が明確であるために誤って使うと逆に誤解を導きやすい。

以上が国際的な学問の世界での研究者の条件である。これを「研究者(I)」としよう。勿論被告が述べるように当該分野の知識が共有されていることも重要ではあるが、必須ではない。それよりも誠実さと論理性が重視される。

以上をまとめると研究者(I)の条件は以下である。

1 誠実であること。研究データを捏造しない。他人の成果やアイデアを盗まない。先行研究があるなら必ず引用する。引用せずに他人の成果やアイデアを論文に書くと剽窃を疑われる。日本の人文科学では対立する研究者や研究グループの論文を引用しないと聞くがそれは研究者(I)の世界ではunfairとされる。

2 論理的であること。そのためには訓練が必要である。理系の学問は学ぶ過程で自然に生まれながらの人間が持っている論理の錯覚を矯正される。人文系の学問は正しいと正しくないの境界が曖昧だからなかなか矯正されない。論理的に考えるためには論理学を学び演習問題などで訓練を積まなければならない。

3 専門用語を正しく理解していること。研究者(I)間の意思疎通が正しく行われるために必須である。研究論文は詩ではない。専門用語を比喩的に用いてはならない。比喩が論理でないことは言うまでもない。

必須ではないが成功する研究者の条件は何だろう。それは発想力だと考える。今までにない新しい考えや見方を生み出す力である。国語学の世界ではしばしば他人の論文を非難するときに「思い付き」という言葉が使われる。しかし新しい考えは思い付くしかない。理系の世界では他人の発想力に感嘆したときに「とても私には思い付けない」などの表現が使われる。思い付きは称賛されるのである。

思い付きを良い意味で表現するときに「ひらめき」と言われる。しかしそう簡単にはひらめかない。十分な知識や経験に加えて考え続けることが重要である。研究者(I)は考え続ける。ある観測事実を説明するための理由を考えるとしよう。十や二十の候補はすぐに浮かぶ。思い付くたびに他の事実に適用できるかを検討する。多くはそのような簡単なテストで棄却される。仮説は正しいことを証明できない。しかし間違いであることは反証を一つあげることで証明できる。思い付く、テストする、棄却する、また思い付く。これを何百回も何千回も繰り返す。そのうちに手持ちのデータに矛盾しないものが見付かる。それを実験などでテストする。あるいは他人のデータと照らし合わせる。そこでまた多くが棄却される。

自然科学の世界で、いや、ありとあらゆる学問の世界で、考えるとはそのような空しい過程を諦めずに続けることである。数えきれない思い付きとテストと棄却の繰り返しの過程ですべてのデータを矛盾なく説明できるものが得られる。後から振り返ってあの「思い付き」が転換点だったと思う。それを研究者(I)は「あの時ひらめいた」と表現する。

観測事実によるテストが行われない発想は「単なる思い付き」で終わる。国語学者が言う「思い付き」はテストされていない発想のことかもしれない。しかしどうもそうではないようである。国語学者はしばしば「論証」という言葉を使う。しかしそれは単に正しいかもしれないという可能性を「考えられる」「自然である」「はずだ」「違いない」という言葉で飾り立てただけである。すべて著者の主観に過ぎない。読者が著者の主観に共感したとき「論証された」と主観的な感想を述べているのである。論証でないものを論証と考えるから共感が得られない仮説を「思い付き」と言うのではないだろうか。しかし経験科学において論証は行えない。それが出来るのは数学のような人間が作った公理から出発する学問だけである。

論証できる仮説などあり得ない。それが可能ならそれはもはや経験科学でなくオカルトである。仮説は反証をあげて間違いを証明できるが正しいことは証明できない。これは仮説の性質である。経験科学に公理は存在しない。新しい理論は思い付く以外の方法で作られない。

ニュートンの法則やマクスウェルの方程式は仮説に過ぎない。あらゆる科学法則は観測事実と照らし合わせて矛盾しないから棄却されていないだけである。ニュートンは力学の法則を思い付いたのであって論証したのではない。実験事実に矛盾しなかったので長い間正しいものと仮定されてきた。

国語学は言語学の一分野である。言語学は経験科学である。間違いだという反証が現れない間は棄却されない。しかし反証が現れていないことは正しいことの証明ではない。このことが国語学者になかなか理解されないようである。正しいものと正しくないものの間に正しいか正しくないか決められていないものが存在する。正否を決定することが不可能な仮説は科学の対象ではない。勿論ここで言う不可能とは個人の主観による判断ではない。客観的に証明されなくてはならない。

ニュートンの仮説はアインシュタインの相対性理論に取って代われた。アインシュタインは相対性理論を論証したのではない。ニュートンの時代には出来なかった方法に基づく新しい観測事実がニュートンの仮説の反証となった。アインシュタインの仮説はその観測事実と整合した。ニュートンの仮説が棄却されアインシュタインの仮説が残った。現時点でアインシュタインの仮説の反証は現れていない。しかし正しいとは証明されていない。経験科学は理論の正しさを証明できないのである。

特許庁で働いていた在野の研究者のアインシュタインが尊敬されるのは誰も思い付かなかったことを思い付いたからである。何かを論証したのではない。その思い付きが評価されるのは今までの観測事実に矛盾しないからである。上代文学会代表の品田悦一は被告席で「原告の学力の限界」と述べたが、アインシュタインは学力が評価されているのではない。発想力が称賛されているのである。


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