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2020年5月22日金曜日

JBJ-20 原告が勝訴するために 上代文学会事件

原告は現職の弁護士である。素人が訴訟の戦略を提案するのは差し出がましいかもしれない。しかし違った観点からの意見も多少の参考になるとは思う。

書籍販売サイトの読者レビューに興味深い意見があった。「私は人文系なのですが、在野研究者が発表し難い空気や、在野研究そのものを一段低く見る傾向は残念ながら存在します」である。萬葉学会とメールのやり取りをしていて同じことを感じた。企業研究者として理系の大学教授たちと直接会ったりメールのやり取りをしているときには全く感じなかった「教えてやる」「素人は専門家の言うことに異を唱えるな」という態度である。

以前にも書いたが被告は「原告には専門家としての上代文学研究者に対する敬意が欠けている」と言う。ここでいう敬意はrespectでなくdeferenceである。この語の意味の違いに注意して欲しい。本居宣長は賀茂真淵をrespectしていたがdefer toしなかった。理系の大学教授の中にも変な人がいないとは言わないが、このようなことを言う人には会ったことがない。相手が誰であろうと必ず論理的な証明に基づいて説明する。自分の主観が正しいなどと信じる研究者はいない。だから被告の準備書面を見て大いに驚いた。理系の人間はこういうculture(註1)の違いに遭遇すると理由が何故なのかを考えてしまう。そして様々な仮説を立ててみる。

註1 この語は日本語の文化よりも風土が近い。社風や校風などの意味である。

理系の研究は大学よりも企業に研究者が多い。ノーベル賞の歴史を見てもBell研究所などの企業から多数の受賞者を出している。一方国文学は殆ど大学でしか研究が行われていない。理系の大学教授は企業の研究者とも学会で交流がある。理系の世界は相互批判が盛んだから自分の考えの間違いに気付く機会が多く自然と謙虚になる。国文科の教授は学生に教えるだけである。出版社や新聞雑誌などと接しても「先生」「先生」と煽ててくれる。しかも他からの批判は無いに等しい。ついついドグマに陥るのではないだろうか。

世の中の人の多くは大学教授はその道の専門家であると思っている。これは裁判官とて同じと思う。私も国語学の論文を読み始めるまではそうだった。しかし論文を読んで感じたのは論説が非論理的な推論に基づくことである。理系の研究者の端くれであるから、他人の論文を読むとき、あるいは自分の論文の原稿を推敲するとき、注目するのは推論の妥当性である。

大学に入学した18歳のときからずっと理系の学問の中で過ごしてきた。科学技術と長年付き合ってきた職業病のようなものかもしれない。論文を読むと論理の流れに注目してしまう。妥当でない推論を目にすると気になる。まるで査読するように論文を読む。

国語学の論文の大半は妥当でない推論から結論を導いている。そして「論証した」と言う。しかし国語学者は自分が論理を間違えているとは気付いていない。弁護士である原告はそれに気付いていると思う。ただしそれは原告が上代語に通じているからでもある。しかし裁判官は違う。論理の専門家であっても上代語については殆ど知識がない。原告に見える論文の非論理性が見えない。

そこで原告に提案するのだが、上代語に通じていなくても非論理性が理解しやすい例を被告たちの論文や著書から選び出し、それを甲号証として提出はどうだろうか。その例として私は品田悦一の「短歌研究」への緊急投稿を取り上げた。品田悦一の言う「間テキスト性」品田悦一の言う「テキスト」とロラン・バルトの言う「作者の死」「令和」から浮かび上がらない大伴旅人のメッセージの3編である。蛇足であるが、そこに書いたThe Tabito Codeというのは旅人の暗号という意味である。論理や専門用語の間違いがある。理系の研究者が相手ならその3編の説明で十分と思うが、国語学者に果たして通じるかどうか。裁判官に説明するにも複雑すぎるかもしれない。

もう少し分かりやすい例がある。井村哲夫(2000)が山上憶良の思子等歌の序文の「釋迦如来、金口正説、等思衆生、如羅睺羅。又説、愛無過子。至極大聖、尚有愛子之心。況乎世間蒼生、誰不愛子乎。」(註2)を「仏陀の永遠と法愛とを易しく説くために愛子の念を警えとしたその言葉から、釈尊もまた愛子の念をお持ちだ、と言いくるめる憶良の序文の論法は、一種詭弁に属するものだ」と断じている。井村はその後に理由を詳しく書いているが、憶良の論法は論理的に妥当である。理系の人間の目には井村の論法が詭弁である。

註2 原文と訓読は河童老さんのサイトを参照されたい。

上代文学会代表の品田悦一がこの井村の論文を好意的に紹介している。井村の論文の論理の間違いは非常にわかりやすい。しかし品田がそれに賛成している。今図書館が休館しているので品田の論文名を参照できない。分かり次第掲載する予定でいる。

理系の世界の基準では非論理的な論文を例え100報書いたとしても次の論文が非論理的であるとは言えない。しかし法律の世界ではこれは有効ではないかと思う。国文科の大学教授の書いた論文の非論理性を示すことで、上代文学会が原告の投稿を非常に短時間で不採用と判断したことが著しく信頼性を欠くこと、判断の基準が原告の学歴(法学部卒であって国文科卒でない)ことに立脚している可能性が高いことを示せると思う。

同様のことを上代文学会の理事たちの論文について行えば、世間の人が根拠なく信じるほど国文科の教授の判断の信頼性が高くないことを示せると思う。大学教授は専門家であるから正しいというのは多くの人が信じていることではあるが、少なくとも国文科の教授の論理性については成り立たない。

上代文学会事件について縷々書いてきた。読者の中には自分の論文が採用されないから憤っているだけだと思う人もある(註3)かもしれない。原告についても同様のことを感じる人があるかもしれない。しかしそうではない。大学の教員やその卵である大学院生の論文だから受理(accept)する、国文科の教育を受けていないから棄却(reject)するという理不尽な判断が問題である。

註3 言うまでもないことだが、ここに「ある」を使うのが伝統的な用法である。
a 彼には子供が3人ある。
b 公園に子供が3人いる。
「ある」と「いる」はこのように使い分ける。NHKのアナウンサーがインタビューで「お子さんはおありですか」と質問して、人間に「ある」を使うとはけしからんという投書があったという話を大野晋が著書で紹介していた。国語学や国文科の関係者でこの「ある」と「いる」の使い分けを知らない人はあるまいと思うが、念のために注記しておく。

さらに言えば科学研究費の申請に関係する論文は内容に不備があっても採用するという不正に近いことも行なわれているらしい。博士号の授与についても乱発という指摘がある。少なくとも反証がすぐにあげられる仮説や途中の推論に誤りがある論文に博士号は相応しくない。国文科の閉鎖性やギルド的体質にかんして内部からも批判がある。それについては今は述べない。科学研究費にかんしては政治家の中にも追及する人がある。そういう人たちに働きかけることも有効と考える。

なお、理系の世界では論文の著者と査読者は対等である。それが世界基準である。査読者の意見に著者は反論するし、場合によっては査読者の専門性の低さを指摘して交代を要求することもある。日本の文学部では何故か査読者が一段上の立場のようである。その根拠は何だろう。学術論文は短歌や俳句ではない。主観で優劣を判断されない。拒絶するならその理由を論理的に述べなくてはならない。日本の国語学や国文学の世界で行われている査読者の主観に基づく判断は「学問の自由」を侵犯するものである。そのような主観的判断が認められるなら、憲法で保障された言論の自由が侵される。原告には裁判でこのことを強く指摘していただきたい。

乾善彦は「(文学部の)危機」と言ったが、それは国文科のギルドの危機である。本来の意味の危機に瀕しているのはギルドに蹂躙される学問の自由と発言の自由である。

参考文献
井村哲夫(2000)「山上憶良論」 神野志隆光、坂本信幸編『万葉の歌人と作品〈第5巻〉大伴旅人・山上憶良(2)』に収録


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