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2020年3月5日木曜日

JBJ-12 「私は東大で40年間万葉集を研究してきた」 上代文学会事件

被告代表の品田悦一(※1)は東京地裁の公判で「私は東大で40年間万葉集を研究してきた」と述べたと言う。伝聞であるから全くその通りの文言だったかは分からない。ネットを検索すると葦の葉ブログさんの「東大品田教授への疑問」という記事がヒットした。

※1 今までの記事で賀茂真淵や本居宣長、橋本進吉、大野晋、山根千恵の諸氏に敬称を付けてこなかった。一方品田悦一には「氏」を付けてきた。研究の場では、口頭なら「さん付け」だが、文章では付けない。国語国文学の論文では何故か「氏」「博士」「先生」などが使われる。奇異に思っていたが、皆がやっているので従ってきた。ギルドはギルドの風土(culture)に従わない人間を排除する。敬称を付けないことを排除の理由にされたくなかった。しかしその考えは間違いであったと気付いた。今後は研究者と有名人には敬称を付けないことにする。

同記事に「・・(品田の説は)何かものすごい飛躍がありすぎる、つまりは論拠薄弱な論のように思われ・・しかし品田氏は、NHKラジオでは自分は40年間も万葉集を研究してきたし、東大でも教えてきたとのことを繰り返し口にしていらっしゃいました。素人の批判など受け付けないぞとの威嚇にも聞こえましたが・・」とある。

伝聞の内容が正確に発言と一致するかは不明だが「40年間万葉集を研究してきた」云々や「東大」云々をNHKラジオで繰り返していたとすれば、私が聞いた内容は、日常の場の論理に従えばだが、はほぼ正確だ。被告席でそう述べたとしたなら確かに威嚇でしかない。

研究の場では、発言の評価は発言者の経歴とは独立である。過去に橋本進吉や大野晋の言葉を引用したが、橋本や大野がそう述べる理由は国語国文学の世界では発言者の経歴が発言の評価に影響を与えるからでる。しかしそれは日常の場の論理である。例えば被告が巌流島で決闘するとしよう。「私は本郷の道場で40年間剣術の修業をしてきた」と言ったとしても宮本武蔵は怯まない。日常の場の論理は武道の場では通用しないし、研究の場や司法の場でも通用してはならない。

Albert Einsteinは在野の研究者であった。有名な光量子仮説や原子の実在を予測するブラウン運動の説明や特殊相対性理論の論文を書いたときは大学や研究機関でなく特許庁で働いていた。原子論はErnst MachやPierre Duhemが徹底して排斥していた。目に見えないもの、手で触れないものの存在を仮定するのは科学でないと言う。相対性理論に従えば光速に近い速さで運動する物体の質量は増大し長さは縮み時間が遅れる。我々の日常の「常識」に反する。それでもEinsteinの論文はドイツの有名な学術雑誌に掲載された。

科学者が謙虚だから(※2)である。大学にも研究所にも所属しない26歳の若者が書いた論文を経歴で棄却しなかった。科学者は自分たちが間違っているかもしれないと知っている。科学史を振り返れば人類は何度も「常識」をひっくり返されてきた。間違ったデータに基づく論文や論理的妥当性を欠く推論に基づく論文は棄却される。しかしそのような問題が無ければ、たとえその結論がどれだけ「常識」に反していても掲載される。論文の審査は論文の結論の正しさを判断するものではない。それは後の研究者たちの仕事である。

※2 Einsteinの一連の論文だけに限れば、既に同様の説が発表されていた。科学的な原子論を最初に唱えたのは勿論Einsteinでない。特殊相対性理論の真の発見者はHenri Poincaréだとする説やHendrik Lorentzだとする説はある。しかし原子論にせよ、相対性理論的な考えにせよ、最初の論文が棄却されなかったのはやはり科学者が謙虚だからである。

上代文学会や萬葉学会は自分たちが絶対に正しいと、あるいは、少なくも一般人とは比べ物にならない知識や判断力を有していると信じているらしいし、論文の審査はその正否を決めることだと考えているようだ。それが大きな問題である。それを法廷で争うことを乾善彦(※3)は「人文学の危機」と言った。学会が非科学的な偏見で論文の審査を行うならば学問の健全な発展が阻害される。それこそが「学問の危機」である。彼らのいう「危機」は学会というギルドの危機である。上代文学会や萬葉学会は何故自分たちに論文の正否を判断する能力があると信じるのか。

※3 有名人と研究者の敬称を省く理由を※1に書いた。

前にも書いたが、被告らは「上代文学に対する説得力のある新説は、それに関わる知識や研究方法を学んでいなければ提出できない」と言う。国文科の博士課程を修了しないとだめなのか。そもそも「説得力」とは何か。個人の主観的判断ではないのか。

国語学の論文はその多くがA ◇→ B, B ◇→ C ⊢ A → Cという論法で書かれている。AならばBかもしれない、BならばCかもしれない、ゆえにAならばCであるという推論である。論理的に妥当でないことは言うまでもない。私はかつてそれを、単なる仮説の提示であって、仮説を思い付く過程を詳しく説明することで読者の共感を得るというレトリックを用いている、と思っていた。しかし、国語学者たちの多くはそれを論証と信じているらしいと分かった。だからこそ彼らは仮説と検証に基づく科学(人文科学を含む)の正当な方法を「思い付きの仮説」と呼び「説得力がない」と判断するのだ。論文の審査がそのような間違った基準で行われるなら学問の健全な発展は望めない。

上代文学会事件に私が関心を持つ理由はそこにある。科学と反科学の争いである。危機に瀕している国語学が日常の場の論法に基づく非科学的な研究から脱却して正しい学問の方法が行われることを願っている。日本語も古典作品も我々が共有する貴重な財産である。それが反科学的な研究で歪められているなら残念でならない。被告は「原告の邪推するような大学人によるギルドなどでもない」(2019年8月19日付被告準備書面)と述べるが、外部の研究者を正当な理由(根拠)なく排除するなら結果としてギルドを形成していると言わざるを得ない。

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