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2020年3月2日月曜日

JBJ-10 論文の審査基準 上代文学会事件

上代文学会(代表 品田悦一氏)を被告とする民事訴訟事件について書いてきた。念のために書くが、「事件」は法律用語である。刑事事件に限らない。

被告の上代文学会は審査基準を明らかにしていない。被告答弁書によると「上代文学に関して、真理を明らかにし、研究の発展に寄与する」ことは「当たり前」だと言う。確かにこの文言は当たり前ではある。しかしその当たり前を被告は実行しているだろうか。原告の発表が真理であるなら、その発表を封じるのは被告の理念に反する。しかし真理であるかどうかは現時点ではわからない。学術論文の審査基準の「影響力」はそれに関連する。発表の時点で正しいか正しくないかはわからなくとも、正しかった場合に研究の発展に大きな影響を及ぼすことになる論文が評価される。

日本語学会の査読審査の基本方針には次の文言がある。「・・掲載論文への評価は会員を主とした読者に委ねられることに鑑み、査読者の見解に基づく過度の助言や訂正要求は慎みます」。こんな当たり前のことを何故日本語学会は書くのか。科学技術系の学会では常識である。国語国文学の論文の審査がその常識に基づいてなされていないからである。罪が無ければ法律はない。職場から派遣された法律の講習会で「盗電」の判例を習った。日本国内に送電線がなかった時代には電気を盗むという犯罪はあり得なかった。だから法律がなかった。学生時代に岩波文庫の『マヌの法典』を読んで驚いた。そんなことをする人があるのかと思うような罪を対象とした刑罰が記載されている。罰則の対象となる行為があるから法律がある。日本語学会が常識をわざわざ書くのは常識を逸脱する査読行為があるからである。

科学技術論文の査読者は結論が受け入れられるか否かで論文の採否を判断しない。著者が行った実験や参照した実験の方法が適切に記載されているかは審査の対象となる。不確かな事実に基づいては妥当な推論が行えない。しかし実験結果が査読者の直感に反するか否かを理由に拒絶できない。国語国文学の論文にしばしば登場する「とは考えにくい」は著者の直感である。直感はしばしば間違う。そのことは「研究者」の常識である。自分が絶対に正しいと思うことは構わない。しかしそれを理由に他人の意見を否定することは許されない。主観と客観は区別されなくてはならない。その区別が国語学の論文で行われないことがあるからこそ、日本語学会は常識をわざわざ審査基準に掲げているのである。

被告は原告の仮説を「荒唐無稽」と言う。その根拠は何か。被告の直感に過ぎない。現在原子論を信じない人は殆どいない。原子を直接目で見た人はいない。手で触って原子の存在を感じた人もいない。原子や分子は直接知覚されない。しかし人間が直接知覚できない原子の存在を科学者の殆どが信じている。原子論を江戸時代に発表したなら一般人の殆どは被告のように荒唐無稽と言うはずである。原子が存在するという直接的な根拠はない。しかし存在しないという根拠もない。万葉集の巻1の28番の「春過而夏来良之白妙能衣乾有天之香来山」を原告のように読むのが正しいという根拠はないが、正しくないという根拠もない。

アフリカの草原でシマウマの群れが水を飲んでいるとしよう。そこへライオンが現れた。目聡いシマウマがライオンの姿を見付けて駆け出す。他のシマウマも見付けて駆け出す。ある程度の頭数が駆け出すと、ライオンを見付けられなかったシマウマも駆け出す。これは心理学の研究の対象となっている。心理学というとフロイトやアドラーの精神分析学を思い浮かべる人が少なくないが、現代の心理学は実験に基づく科学である。人間にも同じ現象が観察される。多数が言うことは正しい。一般人はそう考える。事実多数意見に従うシマウマは生き残って子孫を残す。日常の場では生き残る可能性が高い判断である。しかし研究の場は違う。多数の常識を疑ってこそ学問は進歩する。自然科学では何度もそのようなことが行われてきた。

裁判では「研究者」とは何かが問われていた。自然科学の世界では自分の直感を妄信する人は研究者でない。権威の説を疑い、多数意見を疑い、自分自身をも疑うのが研究者である。既存の説を根拠なく信じるのは研究者でない。日本の人文科学が世界に貢献できていない理由は日常の論理を研究の場に持ち込むからではないかと思う。日本では文学部の卒業生は常識人だから人間関係が上手く行くと言われるが、英語圏の本を読むと理系と文系とを問わず研究者は変わった人が多いと言う。研究の場では日常の場の常識を捨て演繹的に妥当な考えに従う。中にはその切り替えが上手でない人も一定の確率でありうる。それが研究者変人説の原因と思う。ソクラテスの対話編を読めば、これを日常の場でやれば嫌われるだろうなと誰もが思う。しかし研究の場ではそうでなくてはならないし、日常の場の常識を研究の場に持ち込んではならない。国語国文学に批判されて怒る人たちがいると当該の研究者から言われたことがあるが、怒る人たちは日常の場を研究の場に持ち込んでいるのである。

団体競技の強豪高校では試合中は先輩の名を呼び捨てだし敬語も使わないと言う。高校の運動部の厳しい上下関係を知っている身からすればどうしたらそんなことが出来るのかと思った。またそれが出来るのは一校か二校だとも思った。しかし多くの強豪校では当然と言う。彼らも日常の場と試合の場の切り替えをしていたのである。確かに「山田先輩、良かったら右へ移動していただけませんか」と言っている間にも試合が動く。「山田、右」と言わなけらば試合に勝てない。

前回予告した「原告の戦略に関してもう一点述べたいこと」は次回書くことにする。

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