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2020年3月3日火曜日

JBJ-11 裁判官に見えていなかったもの 上代文学会事件

昨年3月上代文学会(代表 品田悦一氏)を被告とする損害賠償請求訴訟が東京地裁に提訴された。原告は同学会の会員である。講演申込みが不当に拒絶されたという。なおここで言う事件は法律用語である。刑事事件に限らないことに注意されたい。

被告によると原告らの予稿は「常任理事会の場で、申し込み者全員の発表要旨を配布し、時間をかけて査読した上で決定」(答弁書)したと言う。議事録によれば75分間の会議中に報告承認事項が11件あり議事は発表者の選出を含めて小項目が5件ある。企業の会議なら事前に資料を配布する。出席者に検討の時間を与え議事の進行を早める。しかし上代文学会は当日その場で発表要旨を配布した。異様に短時間で決定が為された。あらかじめ発表者が決められていた出来レースだったのではないかと疑わせる。

これに対し被告は「常任理事は全員、大学の教員で、学期末、学年末には、数百枚の答案、数十通のレポート、卒業論文・修士論文などを短期間に読んで評価を下している」(2019年8月15日付け準備書面)から「時間内に800字前後の発表要旨8通を精読して下位2名を選ぶことに困難を感じない。自分が出来ないからといって、研究者にも出来ないと臆断するのは不当である」(同)と言う。私も研究者の端くれだがとてもこのようなことは出来ない。論文一つの査読に数日を要する。文学部の教員は天才的な能力を持っているのであろうか。著者たちが何箇月か掛けた実験や考察である。それを数分で判断して拒絶の理由を客観的に説明する能力は私にはない。

前々回と前回「原告の戦略に関してもう一点述べたいことがある」と書いた。一審では原告の発表原稿の絶対的な評価についてだけ論じられてきた。どんな論文でも子細に検討して行けば何らかの瑕疵はある。百点満点の論文など天才にしか書けない。Albert Einsteinでさえ何度も間違った論文を書いてきた。その後の論文で計算の間違いなどが訂正されている。それでもその論文は受理され雑誌に掲載されてきた。(自然科学の)教科書はほぼ正しいが論文はほぼ間違っている。そういうことさえ言われる。

被告らの書く論文に瑕疵はないのか。それを原告は提示すべきと愚考する。原告の予稿にも不備な点はあるが被告が受理してきた論文にも同様の瑕疵があるはずである。上代語や上代文学の専門的な議論は裁判官には未知の領域である。ならば専門外の人たちにも理解しやすい論理の誤りを指摘するのが良策である。法律の世界は論理が支配する。国語学の論文は推論の論理的誤謬が少なくない。絶対的な評価でなく相対的な比較を行なえば原告の予稿に棄却すべき理由がないことが明らかになる。

人間は概ね論理的に考える。しかし所々に論理の錯覚がある。錯覚の現れ方は共通している。それに基づく論理的誤謬(fallacies)は古代から研究されてきた。論理的思考の本が多数出ているが論理学を学んでも一般の人に効果が少ない。学ぶべきは誤謬である。理系の教育ではそれを徹底して矯正される。数学の問題の解答を間違える。実験が予想した結果にならない。計算機のプログラムは予想通り動かない。そのような体験を通じて学生たちは日々自身の非論理性に気付かされる。論理は訓練で身に付く。

一審では研究者の資格が論じられていた。科学技術の世界では第一に他人のアイデアを盗まないこと。これをやると研究者生命を失う。第二にデータを捏造しないこと。これも同様である。第三に重要なのは論理的に考えることである。これは当たり前過ぎて余り指摘されない。非論理的な推論を行なう論文を殆ど見ない。理系の研究者は滅多に論理を間違えない。万が一間違えれば査読で指摘される。それは研究者になるために学生たちが日々訓練されている結果である。法律の世界も論理で成り立っている。一方そのような訓練が国語学の世界で行われているのだろうか。この点について疑問である。

大学に入学以来私は理系の中で生きてきた。知らず知らずに論理の訓練を受けていた。論文を読むときはrhetoricではなくlogicの流れを読むのが当然になっていた。そのことに気付いたのは国語学の論文を読み始めてからである。非論理的な推論の多さに驚いた。日常の場と研究の場という話を何度か書いてきた。日常生活で非論理的な推論に出会うことは珍しくない。学術論文という研究の場にそれが登場することが不思議だった。初めのうちはこの人は私大の文学部だから高校時代数学をやらなかったのだろうなどと思っていた。しかしそうではない。入試に数学があるはずの国立大学で学んだ人も同じである。

考えてみれば高校の数学は解法を暗記すれば済む話である。それを学んだかどうかは重要でない。学校であろうと職場であろうと理系の人たちは日々自分の非論理性を反省させられる状況にある。そこで知らず知らずのうちに論理的に考える訓練を受けてきた。数式の展開、実験での確認など論理の間違いにはすぐに気付かされる。

国語国文学の世界で自由な議論は行われているのだろうか。以前も書いたが、ソクラテスが処刑される前の晩に集まった弟子たちが師と行なう徹底した議論(家族は何故来ない)。あれは研究の場だからこそである。ラグビーやサッカーの試合で下級生が上級生を呼び捨てにする。これも試合の場だからである。

中根千恵は「インドで私が最も驚いたことは、・・敬老精神が強く、またカーストなどという驚くべき身分差があるにもかかわらず、若い人々や、身分の低い人々が、年長者や、上の身分の人々に対して・・堂々と反論できるということである」「・・チベット社会で、彼らの間では、日本の場合にまさるともおとらない序列意識があり、それは社会生活における席順の重要性や驚くべき敬語のデリケートな使用法によくあらわれている。しかし、私が感心したことは、学者(伝統的に僧侶であるが)の聞の討論の場においては、完全にこの序列意識が放擲されることである」と述べる(「タテ社会の人間関係」)

これは中根が文学部の出身だからではないかと思う。理系の世界では日常の場と研究の場がはっきりと区別される。古代ギリシアの哲学者たちや現代日本の運動部と同じである。中根の指摘する通りなら日本の文学部は日常の上下関係が研究の場に及ぶ。三尺下がって師の影を踏まずという。しかし本居宣長は賀茂真淵をrespectしていたがけしてdefer toしなかった。国語学の世界には「批判されただけで怒る人々がいる」とも言う。それも日常の場と研究の場の混同の結果だと思う。

国語学の論文にしばしば見られる非論理的な推論の原因は相互批判が十分に為されないという学界の風土(culture)にあるのではないだろうか。

国語国文学の論文の推論には上述したfallaciesが少なくない。それを原告が指摘すべきだったと考える。裁判官の目には原告の予稿の内容の絶対的な評価の検討しか示されていなかった。被告が掲載した論文、できれば理事たちの論文の非論理性を指摘することで原告の予稿の価値の判断が相対的な観点から行える。被告は天才ではない。原告の予稿にあるような瑕疵はそこにもある。被告は成文化されていない査読の基準があるという。ならば同じ基準に照らして一方が採択され片方が採択されなかった点を追求すべきと思う。 

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