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2017年9月4日月曜日

質的記述 その1 エスノグラフィー

”・・・しかし、やっぱり、他府県(のグループ)がガパーッと新聞紙上さわがせてくるとやな。それにやっぱりね、情報入ってきてな。「あ、(俺たちも)やらなあかんな」いうてんもんちゃうか?”

A ”(新聞は)ウソばっかり書きよるけどなあ.全然なあ。アタマちゃう子が「アタマなんやかんや」(?)。アタマちゃうのに(て)思うけど。ま、なんしか(なんというか)新聞にな、「暴走族の」、その、たとえば「右京のどったらこったら(なんとかかんとか)」て書かれたら、ウレシイもんなあ”

B ”うれしいやん、有名になるやん”

以上は佐藤郁哉氏の『暴走族のエスノグラフィー』からの引用である。

古代の日本語に興味があった。ここ数年関連する単行本や論文を読んできた。それらの論文には特有の非論理的な推論があることに気付いた。至る所で論理が破綻している。科学的に考え直すことで、未解決の問題の解答が次々に見付かった。手始めに四つ論文を書いた。国文科を出て高校で古文を教えていた知人に見てもらった。論文誌に掲載されるに十分な水準と言われた。

同時に次のような警告を受けた。私の論文は従来説を否定し国語学の世界に革命を起こそうとしている。そのような説を国語学者が受け入れるとは思われない。国内の雑誌に掲載される可能性は極めて低い。英語で論文を書いて海外の言語学の雑誌に投稿してはどうか。

理系の世界は英語が共通語である。日本の学会も論文誌への投稿は英文でしか受け付けない。日本語の記事は他分野の研究者へ向けた解説記事ぐらいである。だから英語で書くことに抵抗はないが、むしろ日本語で論文を書くという経験がなかったが、万葉集の語法の意味の微妙な感覚を英語で表現し分ける自信がなかった。 知人の予想に半信半疑でもあった。

四つのうちの一つはこのブログに発表し、一つはA雑誌へ、一つは雑誌『萬葉』へ投稿した。知人の予想は半分当たった。A雑誌は掲載が決まった。『萬葉』は査読者Q氏の主観的意見に基き「新知見とは言いえない」という理由で不掲載と結論した。理系の世界で「新知見とは言いえないい」と言うためには、そのような記述のある先行文献を示さなくてはならない。またそのような先行文献を示せないのであれば、その論文は新知見であるから、査読者は不掲載と結論することができない。そのことだけでも、今まで常識だと信じてきたことが根本から覆された。またP氏との話し合いでも、同様に常識が覆されることを幾度か経験した。

「ずは」の語法の論文を書いたとき、何故このことが解決できなかったのか不思議に感じた。著名な国語学者が次のように書いている。

木下正俊(1972)「正統的な方法ではこの問題は解決できないのではなかろうか。」
伊藤博(1995)「「ずは」は、集中最も難解な語法で、永遠に説明不可能であろうといわれる。」 

それまで解決できなかったのは、理系の研究者には常識の論理的な推論を、国語学者が行った来なかったからだと考えた。上代や中古の未解決の問題の論文を読むたびに、それぞれの推論の不備に気付いた。そこを修正し、今一度基礎に立ち返って考え直せば多くのことが解決した。上代語の研究はたやすいとさえ思った。

しかしたやすくはなかった。いや、研究は難しくない。問題はP氏やQ氏に如何に納得してもらうかである。「少し疲れました」の記事以来ブログの更新が途絶えていたのは、そのことを考えていたからである。いや、考えるために、アリストテレースのレートリケーを手始めに、様々な哲学の本を読んでいた。そのこと自体は楽しかった。しかし、P氏やQ氏を説得するのは「永遠に不可能であろう」、そして、通常の話し合いでは「この問題は解決できないのではなかろうか」と思われたならない。

エスノグラフィーは民俗誌と訳される。その始まりは欧米の人類学者が「未開」部族の社会を参与観察した記録である。しかし現在では、ある文化を別の文化の側から記述することである。冒頭に引用した佐藤郁哉氏の『暴走族のエスノグラフィー』(新曜社)が良い例である。そこでは質的なアプローチが重視される。質的(qualitative) は理系の世界では定性的と訳される。池田光穂氏の解説記事「質的研究と量的研究のちがい」が参考になると思う。

理系の世界では定性的な記述は定量的な記述に劣るとされてきた。

1-1a 五百円硬貨は銅を含む。
1-1b 五百円硬貨は銅を75重量パーセント含む。

1-2a アルミニウムは熱を良く通す。
1-2b アルミニウムの熱伝導率は237 W/(m·K)である。

1-1aや1-2aが定性的記述、1-1bや1-2bが定量的記述である。この場合は後者の情報量が多い。しかし冒頭の引用部分を「メンバーの70%は新聞に取り上げられることを肯定的に評価している」などと書いたら情報量が増えるだろうか。質的(定性的)記述はデータの客観性に難点があると考えるかもしれないが、このような人間の感情の記述は、たとえそれが定量的であったとしても、そこに記述者の主観が入り込まないと言い切れない。少なくとも、客観性において、質的記述が劣るとは言えない。

引用文献
木下正俊1972 『万葉集語法の研究』(縞書房)
伊藤博1995 『万葉集釈注 1』(集英社)

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