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2017年9月6日水曜日

質的記述 その2 詠嘆の「ねえ」

ねえ 「これはだめである」という意味を詠嘆的に言う。
雪枝は成績表を取り上げていたが、「体操と武道がこれではねえ。」と言った。
(井上靖、あすなろ物語)

以上は、とある国語学者の書いた大学短大の国文科の学生向けの教科書からの引用である。


以下の例文の暗に「これはだめである」という意味は終助詞のない2-1bにもある。終助詞が「さ」「な」「よ」やそれらを長音化したものに置き換わっても意味は大同小異である。

2-1a 武道と体操がこの成績ではねえ。
2-1b 武道と体操がこの成績では。
2-1c 武道と体操がこの成績ではさ。
2-1d 武道と体操がこの成績ではな。
2-1e 武道と体操がこの成績ではよ。

2-2は「これはだめである」と詠嘆的に言っているのだろうか。

2-2a 太郎は武道と体操が得意だからねえ。
2-2b 花子は美人だねえ。
2-2c 次郎の体格ではねえ。(次郎が)勝って当たり前だよ。

2-1aに「詠嘆」の意味があるとすれば、それは「ねえ」の中にあるのではなく、「この成績では」の後ろに省略された部分にある。なぜ気付かないのか。なぜ上に示したような簡単な例で確認してみないのか。

このような傾向は「とある国語学者」だけではない。万葉学者に共通する。何かと言えば「詠嘆」や「強意」である。その意味が本当にその助詞や助動詞の中にあるのか。それともその文全体にそもそもその意味があるのではないか。

萬葉学会のQ氏も不掲載の理由に「上代では、「世の中は空しきものと知るときしいよよ益々悲しかりけり」の副助詞「し」は副詞性助詞として「知れば知るほどに」と程度強調を表す例がある。」と書いているが、「知れば知るほどに」の意味は「し」ではなく「いよよ益々」にあると考えるべきではないのか。

少し考えれば気づくことを考えない。まるで少しでも頭を使うと脳が減るとでも思っているのだろうか。「とある国語学者」氏も萬葉学会の査読者のQ氏も本当にそう考えているのではないかと思うほどである。考えれば疲労はするが、脳は逆に鍛えられる。考えないと脳は劣化する。筋肉と同じである。

Idiocracyという映画がある。アメリカ陸軍の図書館で働いていたJoe Bauersは生命活動の一時停止実験(冬眠)の被験者となる。しかし思わぬ事態から実験は忘れられ、そのまま五百年後の世界で目を醒ますことになる。インテリは子供を作らず、その逆は子沢山の状態が続いたため、人類の知能指数は恐ろしく低下していた。平凡なJoeは五百年後の世界で天才だった。


コンピュータ 「あなたはバケツを持っているとします。一つには2ガロン、もう一つには7ガロン入ります。あなたはバケツを幾つ持っていますか?」
Joe 「二つ(ですか?)」 あまりに簡単すぎて何か裏があるのかと思って躊躇する。
正解を示すシングルが鳴り響く。一方、回りでは四角い穴に円柱を無理に入れようとしている他の受験者たちが恥ずかしそうにそれを隠す。


農作物が育たない。理由は水の代わりにブランドウというポカリスエットのようなものを与えているからであるが、ブランドウを止めて水をやろうとするJoeに対して、他の高官たちはブランドウは電解質が入っているからの一点張りである。





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